なぜそれが小神権と呼ばれるかといえば、それが大神権、すなわちメルキゼデク神権に付属するものであり、外形上の儀式を執行する力を持つからである。
「彼らも強くなるためである」2016年10月、ヘンリー・B・アイリング、大管長会
ウィルフォード・ウッドラフは,大管長のときに,かつて神権の職において経験したことをこう述べています。
「わたしはこの教会で初めて説教を聞き,翌日,バプテスマを受けました。……教師に聖任され,すぐに伝道を始めました。……その伝道中はずっと教師でした。……大会で祭司に聖任されました。……祭司に聖任された後,派遣されて……南部地域の伝道に赴きました。1834年の秋のことです。わたしには同僚がおり,わたしたちは財布も袋も持たずに出かけました。わたしはかなりの距離を独りで旅して,福音を宣べ伝えました。そして,多くの人にバプテスマを施しましたが,彼らを教会員に確認することはできませんでした。わたしは祭司にすぎなかったからです。……わたしはしばらく福音を宣べ伝えながら旅をし,その後,長老に聖任されました。……
〔今,〕十二使徒定員会の会員となっておよそ54年になります。十二使徒定員会やほかの定員会の会員として,これまで60年間旅をしてきました。そこで,この場にいる皆さんに申し上げたいと思います。わたしは教師の職を受けていたとき,また特に祭司としてぶどう園で務めを果たしていたときに,使徒であったときと同様に神の力によって支えられました。自分の職務を果たすかぎり,違いはまったくないのです。」(ウィルフォード・ウッドラフ,“The Rights of the Priesthood,” Deseret Weekly, 1894年3月17日付,381)
違いがまったくないという,そうした霊的な可能性は,アロン神権をメルキゼデク神権に「付属」するものとした主の説明に示されています。(教義と聖約84:30;107:14参照)「付属」という言葉は,その二つがつながっていることを意味します。このつながりは,神権が本来の力となり祝福となるために,この世においても永遠においても重要です。神権は「日の初めもなく年の終わりもない」からです。(教義と聖約84:17)
