わたしが以前の戒めの中であなたがたに言ったように、多くの艱難の後に祝福が来るのである。
「子どもたち」2002年4月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会
わたしは絶えず子どもたちと青少年、またその両親について考え、祈っています。最近、ある聖餐会に出席しましたが、特別な必要を抱えた子どもたちが発表してくれました。どの子も耳か目に、または精神の発達に障害がありました。一人一人のそばには10代の子が付き添っていました。子どもたちは歌を歌い、音楽を演奏してくれました。前列の席にこちらを向いて少女が座っていましたが、立ち上がると、わたしたちの後ろにいる耳の聞こえない人々のために手話で伝えていました。
ジェニーが短い証をしました。次に、両親がそれぞれ話しました。二人はジェニーが普通の人生を送れないと分かったときに味わった、ほんとうの苦悩について話しました。その後に続いて起こった、やむことのない、日々の試練を語ったのです。他人がじろじろ見たり、笑ったりしたとき、ジェニーの兄弟たちは身を挺して彼女を守りました。その後ジェニーが家庭にもたらした愛と究極の喜びについて、母親が語りました。
この両親は「多くの艱難の後に祝福が来る」ことを学んだのです(教義と聖約103:12)。わたしには、この家族が逆境によって一致し、あたかも純金のように精錬されたことが分かりました。彼らは真の末日聖徒です。
ジェニーはいろいろな父親と友達になりたがっていると聞きました。それで、ジェニーと握手したときに言いました。「わたしはおじいさんだよ。」
ジェニーは見上げて言いました。「ええ、確かにそうね。」
聖文や教会の出版物、わたしたちの信条や教えのどこを探しても、両親やほかのだれかが、自分自身の子どもや他人の子どもを放置したり、虐待したり、苦しめたりするのを容認している箇所は一つもありません。
反対に、聖文や教会の出版物、わたしたちの信条や教えでは、わたしたちが子どもを守り、愛し、世話し、そして「真理の道を……歩むように〔子どもたちに〕教え」なければならないという勧告と戒め、そして警告さえも与えられています(モーサヤ4:15)。子どもたちを裏切ることなど、とうてい考えられません。
