あなたがたはイスラエルの子らであり、アブラハムの子孫であって、力により、また伸べられた腕をもって、囚われの身から導き出されなければならないからである。
「あなたがたの行うことを神聖にしなさい」2002年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
神聖にすることについて思いを巡らし、探求を続けるならば、無理からぬことですが、求められるかもしれない事柄を考えて内なる心が震えます。しかし、主は次のような慰めの言葉を授けてくださっています。「わたしの恵み〔は〕あなたがたに対して十分であ〔る。〕」(教義と聖約17:8)わたしたちは心から主を信じているでしょうか。主はまた、弱さを強さに変えると約束してくださいました(エテル12:27参照)。わたしたちはほんとうに進んでその変化に身をゆだねているでしょうか。完全を求めるのであれば、主に対してもすべてをささげる必要があります。
わたしたちの意志がますます御父の御心にのみ込まれてしまうということは、実はわたしたち自身が高められ、広げられ、「〔神〕が持っておられるすべて」を受ける力が増すことなのです(教義と聖約84:38)。さらに言えば、わたしたちの意志がもっと主の御心と似たものにならずに、主から「すべて」を託されることが可能でしょうか。また、すべてをささげていない者が主の「すべて」の意味を正しく理解できるでしょうか。
率直に申し上げて、何であってもすべてをささげないとき、わたしたちは自らの可能性を裏切ることになります。したがって、「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と尋ねる必要はないのです(マタイ26:22)。それよりも、わたしたち個人のつまずきの石について、「主よ、これですか」と尋ねましょう。わたしたちは以前から答えを知っていて、主の御言葉よりも自分自身の決意が必要なのかもしれません。
神の寛大な計画における最高の幸福は、進んで自らを高め、犠牲を払いながら神の荘厳な王国への旅路を進む人々のために最終的に取っておかれるのです。兄弟姉妹の皆さん、「来てください。旅をともに続けましょう。」(「来たれ、旅を共に続けん」『賛美歌』135番参照)「伸べられた腕」をお持ちの主(教義と聖約103:17;136:22参照)、イエス・キリストの御名により申し上げます。アーメン
