また、わたしの僕ジョン・マードックと、わたしの僕ハイラム・スミスも、デトロイトを通って同じ所に旅をしなさい。
彼らは、そこから先は途中で御言葉を宣べ伝えながら旅をしなさい。しかし、預言者たちや使徒たちが書き記したことと、信仰の祈りによって慰め主により教えられることのほかは何も語ってはならない。
二人ずつ組んで行きなさい。このようにして、旅の途中すべての会衆の中で教えを説き、水によって、また水辺での按手によって、バプテスマを施しなさい。
「何か大きな事」2001年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
ジョセフは、教会を導き、現在わたしたちに与えられている啓示を授かりました。そして、ハイラムはこの弟ジョセフのすべての必要、そして要求にこたえました。ハイラムは毎日、毎月、そして長年にわたって確固として忠実でした。兄アルビンの死後、ハイラムは両親のために白い家を建てました。ジョセフが金版を受け取ったときはそれを保管し守るための箱を用意しました。版が翻訳されたとき、ジョセフはハイラムを信頼し、印刷するための原稿の写しを託しまるした。ハイラムは毎日、ほとんどはオリバー・カウドリとともに、その原稿を持って印刷所までの道を往復しました。(ロナルド・k・エスプリン、“Hyrum Smith: The Mildness of a Lamb, the Integrity of Job,“ Ensign, 2000年2月号、32)
ハイラムは農夫、または労働者として家族を支えました。しかし、1830年に教会が設立されるとコールズビル支部を管理する責任を受けました。彼は妻と家族を連れてニューエル・ナイトの家族とともに住み、そのほとんどの時間を「福音の話に耳を傾ける人がいるかぎりどこででも教え」ることに費やしました。(“Scraps of Biography”, Classic Experiences and Adventures, ‘Newell Knight’s Journal’”の項 (1969年)65)また常に良い宣教師として自分の家の近隣だけではなく、アメリカの東海岸や南部にも赴きました。1831年にはジョン・マードックとともにミズーリへの行き帰りを通じて福音を宣べ伝えました。(教義と聖約52:8-10参照)
1833年にカートランド神殿建設の構想が伝えられると、ハイラムはすぐに長柄の鎌かまを手にし、神殿用地の雑草を刈り、基礎を掘り始めました。1834年にシオンの陣営が組織されたとき、ハイラムはライマン・ワイトを助け、人員を募り、ミシガンからミズーリまで聖徒らのグループを導きました。
これらの小さな事柄を通じて、ハイラム・スミスは1834年12月、教会の大管長補佐に任命されました。彼は自分の弟である預言者ジョセフの指示の下に仕えたのです。彼は教会の業に携わっているときでも、リバティーの監獄に捕らえられているときでも、弟ジョセフにとって、常に力と慰めの源でした。1844年に迫害が猛威を振るい、ジョセフが暴徒から逃れようとノーブーを去ったとき、ハイラムは同行しました。彼らが川岸に立って、戻るべきかどうか熟考していたとき、ジョセフはハイラムの方を向いて言いました。「あなたの方が年上です、どのようにしたらよいでしょうか。」
ハイラムはそれに対し、このように答えました。「戻って、姿を現し、どのようなことになるか見てみようではありませんか。」(Hyrum Smith-Patriarch, Ensign, 2000年2月号、36で引用)
彼らはノーブーに戻り、やがて、カーセージの監獄に連れて行かれました。そこで、お互いに数分たかわず、命を奪われ、殉教者として亡くなったのです。ハイラムは寄せられた信頼に対して、死に至るまでも忠実でした。すべての点において彼は救い主の弟子でした。しかし、彼をまことに大いなる者としたのは、日々の熱心な働きでした。
