また、彼らは聖約と教会の規定とを守って実行しなければならない。また、御霊に導かれるままに、これらを彼らの教えとしなければならない。
「あなたがたは再び生まれなければならない」2007年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
塩水に浸され,塩分をたっぷり含んだキュウリがピクルスに変化するのと同じように,皆さんもわたしも,イエス・キリストの福音を吸収することで再び生まれます。交わした「聖約」を尊んで「守〔り〕」(教義と聖約42:13、教義と聖約42:13、2ニーファイ32:3),「熱意を込めて御父に祈〔り〕」(モロナイ7:48),そして「〔わたしたちの〕心と,勢力と,思いと,力を尽くして神に仕え〔る〕」と(教義と聖約4:2),次の聖句のようになれます。
「あなたがたが交わした聖約のために,あなたがたはキリストの子と呼ばれ,キリストの息子および娘と呼ばれる。見よ,それは,今日キリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。あなたがたは,キリストの御み名なを信じて心が改まったと言う。だから,あなたがたはキリストから生まれ,キリストの息子および娘となったのである。」(モーサヤ5:7)
この聖句が教える霊的再生は概して短時間で起きたり,一度に起きたりするものではありません。一つの出来事ではなく,継続的な過程なのです。教訓に教訓,規則に規則を重ね,徐々に,そしてほとんど気づかないくらい少しずつ,わたしたちの動機,思い,言葉,行いが神の御心に添うものとなっていきます。変化の過程におけるこの段階は,時間と根気,そして忍耐を要します。
キュウリをピクルスにするには,一定の状態で,継続して,完全に塩水に浸さなければなりません。そのため,塩は調理上の重要な役割を果たします。塩は聖文の中で,聖約および聖約の民の両方を表す象徴として頻繁に用いられています。そして,キュウリがピクルスに変化するうえで塩が欠かせないのと同様,聖約もわたしたちが霊的に新しく生まれるうえで欠かせないものです。
再び生まれる過程は,キリストを信じる信仰を働かせ,罪を悔い改め,神権の権能を持つ人によって罪の赦しを受けるために水に沈めるバプテスマを受けることから始まります。
「すなわち,わたしたちは,その死にあずかるバプテスマによって,彼と共に葬られたのである。それは,キリストが父の栄光によって,死人の中からよみがえらされたように,わたしたちもまた,新しいいのちに生きるためである。」(ローマ6:4)
バプテスマの水から出た後,わたしたちの霊は継続的に救い主の福音の光と真理に浸され,それらを吸収しなければなりません。キリストの教義に単発的に浅く浸され,回復された主の教会に時々参加するだけでは,「新しいいのちに生きる」ために必要な霊的な変化を引き起こすことはできません。永遠の祝福を享受するためには,聖約を忠実に守り,絶えず決意を強め,自分自身を神にささげることが必要です。
「わたしはあなたがたがイスラエルの聖者であるキリストのもとに来て,キリストの救いと,キリストの贖いの力にあずかるように望んでいる。まことに,キリストのもとに来て,自分自身をキリストへのささげ物としてささげ,断食と祈りを続け,最後まで堪え忍びなさい。そうすれば,主が生きておられるように確かに,あなたがたは救われるであろう。」(オムナイ1:26)
救い主の福音に完全に浸り,福音を十分に吸収することは,再び生まれる過程において不可欠の手順です。
