これら様々な教派に転じた改宗者たちは、改宗のときに深い愛を表明し、また、この尋常でない宗教的感情の場面を引き起こし助長するのに深くかかわった牧師たちは、すべての人を改心させるために、どこでも自分の好む教派に加わりなさいと言って、大いなる熱意を表した。にもかかわらず、改宗者たちのある人々はある教派、またある人々は別の教派というように所属が定まり始めると、牧師たちと改宗者たちの好ましく見えた感情は、真実ではなく偽りであるように思われた。牧師が牧師と、改宗者が改宗者と言い争うひどい混乱と悪感情の場面がこれに続き、その結果、すべてお互いの好感情は、もしかつて幾らかでもそのようなものがあったとしても、今は言葉の争いと見解についての論争ですっかり失われてしまったからである。
この聖句が、このとき、かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って、わたしの心に力強く迫って来たのであった。それはわたしの心の隅々に大きな力で入り込んで来るように思われた。もしだれか神からの知恵を必要とする者がいるとすれば、それは自分であることを悟って、わたしはこの言葉を再三再四思い巡らした。なぜならば、わたしはどうしてよいか分からず、また自分がそのときに持っていた知恵よりも深い知恵を得られなければ、どのように行うべきかまったく分からなかったからである。それというのも、様々な教派の教師たちは同じ聖句を異なって解釈し、その結果、『聖書』に訴えて疑問を解決することへの信頼をすべて打ち砕いてしまっていたからである。
「わたしの言葉〔は〕……決して絶えることがない」2008年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
絶えざる啓示は,これまでの啓示をおとしめるものでも,その信用をなくすものでもありません。新約聖書がもたらされたからといって,わたしたちの目から見て旧約聖書が価値を失うわけではありません。むしろ「イエス・キリストについてのもう一つの証」であるモルモン書を読むことで,新約聖書の価値は増すのです。もう一つの聖典を受け入れている末日聖徒として,次の質問をします。「長年の間,(新約聖書の四福音書の中で最初に書かれたと考えられている)初期のマルコによる福音書しか読めなかった初期のクリスチャンは,後にマタイやルカによるさらに詳しい記述を手にして気分を害したでしょうか。さらに,後にヨハネがもたらした,それまでに類を見ない記述や力強い啓示を読んで不快に思ったでしょうか。」もちろん,キリストの神性をさらに確信させる証拠を続けて手にすることができて喜んだに違いないのです。わたしたちも同じように喜んでいるのです。
誤解しないでください。わたしたちは聖書を愛し,敬っています。ちょうど1年前に,この壇上からM・ラッセル・バラード長老が明確に教えたとおりです。(「聖書という奇跡」2007年4月参照)聖書は神の御言葉です。わたしたちの「標準聖典」において常に筆頭に挙げられています。実際,ジョセフ・スミスがヤコブの手紙第1章5節を読んだのは神聖な定めでした。この聖句がきっかけとなってジョセフは示現の中で御父と御子にまみえ,現代にイエス・キリストの福音が回復されることになったのです。しかしそれでも,聖書だけでは,自分や自分のような人々が抱いていた宗教的な疑問のすべてに答えることはできないということをジョセフは知っていました。ジョセフ自身が記した言葉によれば,当時の地域の聖職者は,時には怒りながら,教義を巡って論争していました。「言葉の争いと見解についての論争」の中で「牧師が牧師と,改宗者が改宗者と言い争〔っていた〕」と記されています。言い争っていた宗派の間で唯一共通していたのは,皮肉なことに聖書を信じていたという点でした。しかしジョセフはこう書いています。「様々な教派の教師たちは同じ聖句を異なって解釈し,その結果,聖書に訴えて〔どの教会が真実かという〕疑問を解決することへの信頼をすべて打ち砕いてしまっていた……。」(ジョセフ・スミス―歴史1:6,12)当時しばしば「共通の土台」と言われていた聖書が,実は少しも共通しておらず,残念なことに論争の舞台になっていたのは明らかでした。
ですから,生ける預言者を通じて絶えざる啓示が与えられることの偉大な理由の一つは,聖書が真実であることを新たな証によって世に宣言することにあるのです。古代のある預言者は,モルモン書についてこう述べています。「この記録を書き記しているのは,ユダヤ人から伝わる記録をあなたがたに信じさせるためである。」つまり聖書のことです。(モルモン7:9)ジョセフ・スミスが初期に受けた啓示の一つで,主はこう言われました。「見よ,わたしが〔モルモン書の出現〕を知らせるのは,……〔聖書〕を損なうためでなく,それを築き上げるためである。」(教義と聖約10:52。教義と聖約20:11も参照)
