マンチェスターに移り住んでから二年目のあるとき、わたしたちが住んでいた地域に宗教に関する異常な騒ぎがあった。それはメソジスト教徒から始まったが、間もなく広くその地域内のすべての教派に及んだ。 実に、その地方全体がそれに影響されたようであった。そして、大勢の群衆が様々な教派に加わり、それが人々の間にただならぬ騒ぎと分裂を引き起こした。「見よ、ここだ」と叫ぶ人がいれば、「見よ、そこだ」と叫ぶ人もいた。ある人はメソジスト派の教えを、ある人は長老派の教えを、またある人はバプテスト派の教えを擁護して論争していた。
「主の羅針盤」2005年10月、ローウェル・M・スノー、七十人
わたしは山登りを楽しみますが,山奥を歩くときは,目的地までの道案内として磁石や地図,標識をよく見ます。知らない所でたくさんの道が交差する分岐点に来たときには非常に役立つ,さらには貴重と言っても過言ではない道具です。
人生では大小様々な道が交差しています。行く道も,「見よ,ここだ」「見よ,そこだ」と叫ぶ声も,ほんとうにたくさんあります。(ジョセフ・スミス―歴史1:5参照)活に洪水のように流れ込んでくるメディアは種類も量も豊富で,ほとんどが,多くの人が旅する広い道に連れて行こうとしています。
どの声に耳を傾けるべきか,たくさんある道の中でどれが正しいのかと深く考えるとき,ジョセフ・スミスのように自問したことはありませんか。「何をしなければならないのだろうか。これらすべての〔声や道〕のうちのどれが正しいのだろうか。それとも,ことごとく間違っているのだろうか。もし〔それ〕らのうちのどれかが正しいとすれば,それはどれで,どうすればそれが分かるのだろうか」と。(ジョセフ・スミス―歴史1:10) イエス・キリストは今も道を示し,導き,旅路においてあらゆる地点をはっきり示しておられることを証します。主の道は細くて狭いものですが,「光と命と永遠」へと続いています。(“How Great the Wisdom and the Love“『賛美歌』〔英語〕195番〔訳注――「高きに満ちたる」『賛美歌』112番参照〕)
Niphi with Liahona by Jorge Cocco Santangelo
