しかし見よ、わたしのこの喜びは無駄であった。彼らの悲しみは、神の慈しみを思って悔い改めに至るものではなかった。それはむしろ、彼らに罪のあるままで幸福になるのを主がいつでも許そうとなさらないことに対する悲しみであり、罰の定めを受ける者の悲しみと同じであった。
「神の慈しみと偉大さを深く考える」2020年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
神の偉大さを覚え,神がわたしたち個人や家族,民のためにしてこられたことについて深く考えるようにと,預言者はいつの時代でも,特に困難な時にこそ,人々に勧めてきました。(例えば,アブラハム2:16;出エジプト13:3;ヨシュア4:6-9;サムエル上7:11-12参照)この勧めは聖典の至るところに出てきますが,モルモン書では特に顕著です。モルモン書の目的の一つは「イスラエルの家の残りの者に,主が彼らの先祖のためにどのような偉大なことを行われたかを示す」ことだという説明がタイトルページにあり,(モルモン書のタイトルページ)モルモン書の締めくくりには,モロナイのこのような訴えが載っています。「見よ,わたしはあなたがたに勧めたい。……あなたがたはこれを読むときに,……主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし,それを心の中で深く考えてほしい。」(モロナイ10:3)
神の慈しみについて深く考えるようにと,預言者たちが一貫して訴えていることには驚かされます。(例えば,申命6:12; 11:18;ヨシュア4:21-24; サムエル上7:12;ローマ2:4;11:22;2ニーファイ9:10;33:14;モルモン書ヤコブ1:7;モーサヤ5:3;25:10;27:22;アルマ34:4;ヒラマン12:2;3ニーファイ4:33;18:11-12;モルモン2:13;教義と聖約133:52;138:2参照)天の御父は,神とその愛する御子の慈しみを思い起こすことをわたしたちに望んでおられますが,それは御二方の満足のためではなく,それを思い起こすことによってわたしたちに影響があるからなのです。御二方の慈しみを思うと,視野が開け,理解の幅が広がります。御二方の憐れみについて思い巡らすと,わたしたちはより謙遜になり,よく祈るようになり,確固とした者となることができます。
