「わたしはアミュレクである。わたしはギドーナの子であり、ギドーナはイシマエルの子、イシマエルはアミナダイの子孫である。このアミナダイは、神殿の壁に神の指で書き記された言葉を解き明かした、あのアミナダイである。
そして、アミナダイはニーファイの子孫であり、ニーファイはエルサレムの地から来たリーハイの子、リーハイはマナセの子孫、マナセは兄たちの手によってエジプトに売られたヨセフの子である。
そして見よ、わたしも、わたしを知っているすべての人の中では少なからず信望を得ている者であり、まことに見よ、わたしには多くの親族と友人がいる。わたしはまた勤勉に働いて大きな富も得た。
それでもわたしは、主の道と、主の奥義と、驚くべき力については、まだ多くのことを知らない。いや、わたしはこれらのことについて多くを知らないと言ったが、しかし見よ、それは間違いである。わたしはすでに、主の奥義と、まことにこの民の命を守るために現された主の驚くべき力を、多く見てきたからである。
それでもわたしは、心をかたくなにした。幾度となく呼ばれたが、わたしは聞こうとしなかった。だからわたしは、これらのことについて知っていながら、知りたいと思わなかった。そこでわたしは、悪い心のまま、さばきつかさの統治第十年のこの七月の四日まで、神に背き続けた。
「アルマとアミュレクから学ぶ」2016年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
アミュレクは,アモナイハの人々によく知られた裕福な人でした。彼は由緒ある教会員の子孫でしたが,自分自身の信仰は弱くなっていました。後に彼はこのように告白しています。「わたしは幾度となく呼ばれたが,わたしは聞こうとしなかった。だからわたしは,これらのことについて知っていながら,〔信じ〕たいと思わなかった。そこでわたしは,……神に背き続けた。」(アルマ10:2-6参照)
しかし神はアミュレクを備えてくださいました。アミュレクはアルマに会うと,主の僕を自分の家に歓迎し,アルマはそこで何日も滞在しました。(アルマ8:27 参照)その間に,アミュレクはアルマのメッセージに心を開き,すばらしい変化が彼にもたらされました。それ以来,アミュレクはただ信じたのではなく,真理の擁護者となったのです。
アルマが再びアモナイハの人々に教えるために出て行ったとき,アモナイハの地元の人であるアミュレクが,アルマの傍らで証する第二の証人となりました。
その後の出来事は,すべての聖典の中でも,最も悲喜こもごもの話の一つです。そのことについては,アルマ書第8章から第16章で読むことができます。
今日,皆さんに次の二つの質問について考えてほしいと思います。
「わたしはアルマから何を学べるだろうか。」
「わたしのどこがアミュレクに似ているだろうか」
……
アミュレクを探すべき人もいれば,「わたしのどこがアミュレクに似ているだろうか」と問うべき人もいます。
長年の間に,主の弟子としての熱意が薄れている人もいるでしょう。証の炎が弱まっている人もいるでしょう。キリストの体から,自分を遠ざけている人もいるでしょう。幻滅したり,怒りを感じたりした人もいるでしょう。古代エペソの教会にいた一部の人々のように,「初めの愛」(黙示2:4参照),すなわちイエス・キリストの福音の崇高で永遠の真理から離れている人がいるかもしれません。
または,アミュレクのように,主が「幾度となく呼ばれ」ていることを知っていながら,「聞こうとしな〔い〕」人がいるかもしれません。
それでも,主はアミュレクに見いだされたものを皆さんにも見いだされます。それは重要な業を託され,証を分かち合う雄々しい僕となる可能性です。ほかの人ではまったく同じ働きをすることができない召しがあります。主は,人々を祝福し高める神聖な力を秘めた御自身の聖なる神権を,皆さんに託しておられます。心の声を聞き,御霊の促しに従ってください。
Alma and Amulek in glory by Jorge Cocco Studio
