さて、さばきつかさの統治第八年には、教会の人々は次第に高慢になり始めた。それは、彼らが勤勉であることによって得た非常に多くの富と織り目の細かい絹と、より糸で織った亜麻布と、大小の多くの家畜の群れと、金と銀、あらゆる貴重な品々のためであった。彼らはこれらのものに恵まれて非常に高価な衣服を身に着けるようになり、高慢な目をもって高ぶった。
「永遠の中の日常」2017年10月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
謙遜になろうとする過程で,現代のインターネットの進化が高慢の回避を難しくしています。二つの例があり,一つは得手勝手な「これ見よがし」のアプローチ,あるいはソーシャルメディア上で暴言を吐くことによる他人への攻撃です。もう一つは「謙虚を装った自慢」です。これは「上辺は控えめあるいは自嘲的だが,ほんとうは自分が誇りに思っていることに注意を向けるための言葉〔または写真〕」と定義づけられています。(English Oxford Living Dictionaries, “humblebrag,” en.oxforddictionaries.com/definition/humblebrag)預言者はいつも高慢について,またこの世のむなしいものを重要視することについて警告してきました。(これはある意味では「〔ニーファイ人〕が勤勉であることによって得た……あらゆる貴重な品々」についてのアルマ書の描写を繰り返している。そこには「〔しかしニーファイ人は〕高慢な目をもって高ぶった」と記されている(アルマ4:6)。「謙虚を装った自慢」も自慢であることには変わりない。)