オムナイ1:15、17 聖文の祝福 | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

オムナイ1:15、17

さて見よ、モーサヤが知ったところによれば、ゼラヘムラの民は、ユダの王ゼデキヤがバビロンへ囚われの身となって連れ去られたときに、エルサレムから出て来た民であった。

そして、モーサヤが発見したときには、彼らは非常に大きな数になっていた。しかし、その前に多くの戦争と激しい争いがあって、民が剣によって倒れたことも度々あった。また、彼らの言葉はなまっており、そのうえ、彼らは何一つ記録を持って来ておらず、しかも、自分たちの創造主の存在を否定していた。それでモーサヤも、モーサヤの民も、彼らのことを理解できなかった。

 

 

「聖文の祝福」(英文)2010年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会

また、聖文が多くのことを思い出させてくれるおかげで、わたしたちは、自分や昔の世代の人々が学んだことを忘れずにいられます。記録された神の言葉を持っていない人、あるいは無視する人は、最終的に神を信じなくなり、自分が存在する目的を忘れてしまいます。皆さんは、エルサレムを去るときに真鍮の版を携えて行くことがリーハイの民にとってどれほど大切だったかを覚えているでしょう。それは聖文であり、神と、来るべきキリストの贖いについて知るうえで欠かせないものでした。リーハイのすぐ後に「エルサレムから出て来た」別の民は、聖文を持っていませんでした。そのおよそ300年から400年後、リーハイの子孫が彼らに会ったときの状況について、記録には次のようにあります。「彼らの言葉はなまっており、……しかも、自分たちの創造主の存在を否定していた。」オムナイ1:15、17

 

ティンダルの時代、聖文に無知な人が多かったのは、聖書、とりわけ自分たちの言語で理解できる聖書がなかったためでした。今日、聖書などの聖典はすぐ手に入りますが、それを読もうとしないために聖文に無知な人の数が増えています。そうした人々は、結果として彼らの祖父母が知っていたことを忘れてしまっているのです。