そしてすべての人は、この第一の死から命に移行すると、すでに不死となっているので、イスラエルの聖者の裁きの座の前に出なければならない。それから裁きがあって、すべての人は神の聖なる裁きによって裁かれなければならない。
「イエス・キリストの復活」2014年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
ナザレのイエスの真の姿および人生についての哲学的な論駁や疑問を決定的に解明するうえで,復活の持つ意義について,少しの間考えてみてください。もしイエスが本当に文字どおりに復活されたのなら,疑いもなく,主は神なる御方であるということになります。普通の人間が死んだ後に自分の中に再び生きる力を持つことはありません。イエスは復活されたので,単なる大工,教師,律法学者,もしくは預言者であったということはあり得ません。イエスは復活されたので,神,まさに御父の独り子でなければならなかったのです。
それゆえ,主が教えられたことは真実です。神はうそをつくことがおできになりません。(エノス1:6参照)
それゆえ,主が言われたように,主は地球の創造主なのです。(3ニーファイ9:15参照)
それゆえ,主が教えられたように,天と地獄は実在するのです。(教義と聖約76章参照)
それゆえ,主が亡くなられた後に訪れた霊界があるのです。(教義と聖約138章参照)
それゆえ,天使が告げたように,29主は再び来られて,自ら地上を統治されるでしょう。(信仰箇条1:10;Topical Guide, “Jesus Christ, Millennial Reign”も参照。)
それゆえ,全ての人に復活と最後の裁きとがあるのです。(2ニーファイ9:15参照)
キリストの復活が現実のものとなったことによって,世を贖うためにその独り子を犠牲にした父なる神の全知全能と慈愛に対する疑いの根拠がなくなります。人生の意味と目的に関する疑いは事実無根なのです。イエス・キリストは事実,人類に救いをもたらすことのできる唯一の名であり道なのです。キリストの恵みは実在し,悔い改めた罪人に対して赦しと清めの両方をもたらします。信仰は本当に想像や人が心の中で創り上げたものを超えるものです。絶対的で普遍的な真理があり,主によって教えられたとおりの普遍的で変わることのない道徳的な標準があります。
キリストの復活は本当のことですので,主の律法と戒めへの違背に対する悔い改めは,可能なものであるとともに,速やかに行うべきことです。救い主の行われた奇跡も,主が弟子たちに彼らは同様の奇跡やさらに大きな奇跡を行うであろうと約束されたことも,本当のことです。(ヨハネ14:12)主の神権は必然的に,「福音をつかさどり,王国の奥義の鍵,すなわち神の知識の鍵を持つ。それゆえ,この神権の儀式によって神性の力が現れる実在の力です。」(教義と聖約84:19‐20)キリストの復活は実際に起こったことなので,死がわたしたちの終わりではありません。肉体は一度滅ぼされるものの,わたしたちは再び肉体にあって神にまみえるのです。(ヨブ19:26)