ヤコブ1:27
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
「教会の必要性」2021年10月、ダリン・H・オークス、大管長会
中には,教会の集会に出席しても助けにならないと言う人がいます。また,「今日は何も学ぶことがなかった」,「だれも親しくしてくれなかった」,あるいは「嫌な思いをした」と言う人もいます。個人的な落胆により,キリストの教義から決して離れてはなりません。主は,仕えられるより,仕える者となるように教えられました。(ヤコブの手紙1:27参照)このことを心に留め,教会に出席するときにどこに目を向けるのかについて,ある会員が話したことを聞いてください。
「何年も前に,わたしは教会へ行くときの態度を改めました。自分のために行くのでなく,人のことを考えるようにしたのです。独りで座っている人にあいさつし,訪問者を歓迎し,……割り当てを進んで行うように努めました。……
つまり,毎週受け身ではなく,積極的に人々の生活に良い影響を与えることを目的に,教会へ出席するようになったのです。」(マーク・スコーセンからダリン・H・オークスへの手紙,2009年2月15日付)
スペンサー・W・キンボール大管長はこう教えています。「わたしたちが安息日の集会に行くのは楽しむためではなく,単に教えを受けるためだけでもありません。主を礼拝しに行くのです。それは個人的な責任であり,……もし礼拝行事が皆さんにとって満足のいかないものであるならば,ほかならぬ皆さんに,欠けているところがあるのです。だれも皆さんに代わって礼拝することはできません。自分自身で主を待ち望まなければならないのです。」(『歴代大管長の教え―スペンサー・W・キンボール』173-174)
