ピリピ4:6-7
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
「決して独りで歩いているのではない」2013年10月、トーマス・S・モンソン、大管長
いばらがまかれ,問題が山積する道を歩くこともあるでしょう。あらゆる良い贈り物を下さる御方から遠く離れてしまった,あるいは絶たれてしまったと感じるときもあるかもしれません。自分は独りで歩いているのではないかと心配になります。恐れが信仰に取って代わってしまうのです。
皆さんが,自分は今そのような境遇にあると感じたら,祈りを思い出してくださるよう心からお願いします。わたしは祈りについて語ったエズラ・タフト・ベンソン大管長の言葉が大好きです。彼はこのように言いました。
「これまでの人生を通じて,祈りに頼りなさいという勧告は,わたしにとってほかのどのような助言よりも貴重なものでした。祈りはわたしにとって欠くことのできないものであり,頼みの綱であり,絶えざる力の源であり,また聖なる事柄に対する知識の基盤となるものです。……
……たとえ……災難が来ようとも,わたしたちは祈ることによって安心感を得ることができます。神がわたしたちの心に平安を下さるからです。この平安,つまり平静な心は人生における最高の祝福です。」(エズラ・タフト・ベンソン「常に祈りなさい」『聖徒の道』1990年6月号,4-5,6)
使徒パウロは次のように勧告しています。
「あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:6-7)
何という輝かしい約束でしょうか。平安こそわたしたちが求めるもの,切望するものなのです。
わたしたちは独りで歩くようにこの地上に置かれたのではありません。実に驚くような力の源,強さの源,慰めの源が一人一人の手の届く所にあります。わたしたち自身よりもわたしたちのことを御存じの御方が,また,はるかに広い視野をお持ちで,初めから終わりまでを御存じの御方が,わたしたちが求めさえすればわたしたちのためにそばにいて助けると約束しておられるのです。わたしたちにはこのような約束があります。「常に祈り,そして信じていなさい。……万事があなたがたの益となるようにともに働くであろう。」(教義と聖約90:24)
