1コリント14:33
神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、…
「個人の平安―義の報い」2013年4月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
神は「無秩序の神ではなく,平和の神である」ことを忘れないでください。(1コリント14:33 参照) 神に背く者に平安はないのです。わたしたちは皆,現世における選択の自由が提示された天上の会議に参列しており,自らの選択の自由を誤って使うことにより,この世の苦痛や言い表せないほどの悲劇にさえ遭遇することを知っていました。そのために,わたしたちは怒ったり,困惑したり,無力になったり,傷ついたりするかもしれないことを理解していたのです。しかし,わたしたちは,救い主の贖罪がこの世のあらゆる不公平に打ち勝ち,埋め合わせをし,平和をもたらしてくれることも知っていました。マリオン・D・ハンクス長老は,次のようなウーゴ・ベッティの言葉を額に入れて壁にかけていました。「神を信じるとは,すべての戒めが正しいことが証明され,想像もできなかったすばらしい報いが待っているということを知ることである。」(マリオン・D・ハンクス「愛をもって人と語る神」『聖徒の道』1993年1月号,71から)
平安の源は何でしょうか。多くの人々はこの世の方法で平安を探し求めます。これまでに成功したことがなく,今後も成功する見込みのない方法です。平安は,ばく大な富や権力,名声を手に入れることで見いだせるものではありません。(ジェフリー・R・ホランドFor Times of Trouble(2012年),79参照。ジェフリー・R・ホランド長老は,「真の貧困は,罪そのものを除いて,ほかのいかなる状況にも増して人を気落ちさせることがある」と教えている。しかし,義にかなった金銭の使い方をすれば,平安を増し加えることができる。)楽しみや気晴らし,レジャーを追い求めることによっても見いだせません。これらはどれも,たとえどれほど多くを手に入れたとしても,永続する幸福や平安を生み出すことはないのです。
エマ・ルー・セインが大好きだった賛美歌は,実に的を射た疑問を投げかけています。「平和はいずこにありや。ほかに癒しなき時,慰めはいずこにありや。」(“Where Can I Turn for Peace?” Hymns,129番)その答えは救い主です。救い主こそ平和の神であり,「平和の君」であられるのです。(イザヤ9:6)
