1コリント11:11
ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。
「人生で出会う女性たち」2004年10月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長
幼いイエスをエジプトに連れて行き,ヘロデの怒りから命を救ったのは女性でした。幼年期と青年期のイエスを育てたのは女性でした。カルバリの丘でイエスの苦痛に満ちた体が十字架にかけられたとき,マリヤはイエスの前に立っていました。苦しみながらもイエスはマリヤに言われました。「婦人よ,ごらんなさい。これはあなたの子です。」そして,母親を養うように頼んだ弟子に向かって言われました。「ごらんなさい。これはあなたの母です。」(ヨハネ19:26-27)
主の生涯を読むと,マリヤとマルタ,マグダラのマリヤが出てきます。最初の復活祭の朝,墓に行ったのは女性でした。そしてこの女性に,イエスは復活された主として最初に御姿をお見せになりました。イエスが女性を非常に重要な立場に置かれたとはいえ,主の御名を公言していた多くの男性がその祝福にあずかれなかったのはなぜでしょうか。
神はその偉大な計画の中で最初に人を創造されたとき,二つの対等な性をお造りになりました。その対等性を気高い形で表したのが結婚です。一方が他方を補っています。パウロは言いました。「主にあっては,男なしには女はないし,女なしには男はない。」(1コリント11:11)
全能者の神聖な目的を満たす制度はほかにありません。男性と女性は神が創造なさいました。そして対等に造られたのです。互いに補い合って機能する男女の関係は神の目的の基本となるものです。どちらか一方だけでは完全ではありません。
