マタイ28:19-20
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
「自分の十字架を負う」2019年10月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。
たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。また,人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:24-26)
救い主はこの宣言を通して,主に進んで従おうとするすべての人は,自らを捨て,自分の望みや好み,情熱を制御しすべてを犠牲にし,必要ならば命さえも捨て,ご自分がされたように,完全に自分の意思を御父の御心に従わせる必要があることを強調されました。(ヨハネ6:38参照)これこそが魂の救いを得るために払うべき代価なのです。イエスは,弟子たちが主の大義に対する犠牲と献身の真の意味をもっと良く理解できるように,意図的に,比喩的に十字架を象徴として使われました。十字架というものは弟子たちやローマ帝国の住民によく知られていました。なぜなら,ローマ人は十字架の刑の受刑者に自分の十字架やその支柱を十字架の刑が行われる場所まで運ばせていたからです。(ヨハネ19:16-17参照)
救い主が復活されて初めて,弟子たちは救い主について書かれたあらゆることに対して理解の目が開かれ(マルコ16:17-20、ルカ24:36-53参照),そのときから自分たちに何が求められているかを(マタイ28:19-20参照)を理解するに至ったのです。
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちも同じように,自分の思いと心を開くことによって,自分の十字架を背負い主に従うことの意味を,より十分に理解する必要があります。自分の十字架を負いたいと願う人は,自分自身を捨て,あらゆる不信心やこの世的な欲を捨て,主の戒めを守るという方法でイエス・キリストを愛します。それを聖文から学ぶことができます。(JSマタイ16:25-29)
