マタイ18:3-4
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
「あなたが改心したときには」2004年4月、D・トッド・クリストファーソン、七十人会長会
どうすれば改心できるのでしょうか。イエス・キリストの福音を,単なる影響力ではなく自分をコントロールする影響力,つまり自分の人格の本質的な部分とするには,どうすればよいのでしょうか。古代の預言者エレミヤは,神の律法,福音を心に書き記すことについて語りました。エレミヤは末の日の民にかかわる主の御言葉を引用しています。「わたしは,わたしの律法を彼らのうちに置き,その心にしるす。わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となる……。」(エレミヤ31:33。※1)
皆さんはこのような改心がしたいですか。もしも本気でそう願うのであれば,その方法を教えましょう。心を開かなければ,福音を心に記すことはできません。聖餐会やクラス,教会の活動に参加しても,わたしが今日教えることを行ったとしても,心から願わなければ,さほど変化はないでしょう。しかし子供のように心を開き,(マタイ18:3-4参照) 熱心に行うというのであれば,改心する方法をお教えしましょう。
第1ステップとして,今日の世の中にはびこっている高慢を完全に捨てなければなりません。高慢とは人の生活を治めておられる神の権威を拒絶する態度です。主はジョセフ・スミスに高慢について説明されました。「彼らは主の義を打ち立てるために主を求めようとせずに,すべての人が自分の道を,自分の神の像を求めて歩む。」(教義と聖約1:16。ヒラマン12:6も参照) 現代風に言い換えるとこうなります。「好きなようにやれよ。」「善悪は気分次第で決まるのさ。」このような態度は神への反抗であり,前世におけるルシフェルとまさに同じです。ルシフェルは,真理を宣言し律法を確立される神の権利を拒絶しました。(教義と聖約76:25-29参照) サタンは過去も現在も,善悪を勝手気ままに宣言する力を望んでいます。愛する創造主は,御自身の権威を強引に認めさせようとはなさいませんが,進んでその権威に従うことが改心の第1ステップです.
さらに,福音が「心にしる〔される〕」ためには,福音が何かを知り,深く理解する必要があります。それは福音を学ぶということです。(※2) 「学ぶ」とは,読むこと以上の行為です。メッセージの全体像をつかむために,時々,聖典1冊を目標期間内に読むのは良いことです。しかし改心したければ,時間内に読む量よりも,聖文にどれだけ時間を割くかに心を向ける必要があります。時には,数節読み,深く考え,同じ節を注意深く読み返し,意味を考え,理解を求めて祈り,心に問いかけ,霊的な考えが浮かんでくるまで待ち,覚えたりさらに学んだりするために感じたことや理解したことを書き留める,そのような読み方をしている皆さんの姿が目に浮かびます。このような方法で学ぶとき,30分かけても多くは読めないでしょうが,心に神の御言葉を受け入れる場所を設け,神が語りかけてくださるのです。その感覚をアルマは次のように表現しています。「これはわたしの心を広げ,わたしの理解力に光を注ぎ,まことに,それはわたしに良い気持ちを与え始めている。」(アルマ32:28) 古今の主の預言者の言葉から心に良い気持ちを感じるにつれて,福音が皆さんの心に記され,心が改まっていることが実感できるでしょう。
※1 エゼキエルは,改心とは主が人から「石の心」を取り去り,代わりに御自身と御自身の福音を愛する心をお与えになるようなものであると語った(エゼキエル11:19-20参照)。これはまさにベニヤミン王の民が経験したことである。彼らは自分たちの心が変化したと語り,二度と悪を行いたいとは思わず「絶えず善を行う望みを持」った(モーサヤ5:2)。
※2 記録された神の御言葉を非常に多く所有しているわたしたちは,大変幸運である。過去の時代においては,聖文を所有したのはごく限られた人々だけであった。当時の人々は説教の中で聖文が読み上げられると,できるだけ記憶しようと努力なければならなかった。自分の聖典を持ち,好きなときに読めるということは,たぐいない祝福である。アダムの時代から現代に至るまでの改心した人々の人生の中で,福音がどのような役割を演じていたのか,見ることができるのである。
