「左利きの私が右利きに矯正されて辛かったことetc.」2 左利き死守したもの | 「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

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ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

みなさま、昨日もありがとうございました。

昨日から
「左利きの私が右利きに矯正されて
辛かったことetc.」を書いています。




今回は第2話。

第1話は導入でしたが
今回の第2話は
これからの話の軸となることを
紹介する形です。







左利きの物語は

左利きの話であることは
間違いないのですが、
実は、発達障害の子の育児にも
伝えたいメッセージであります。




左利きは、右利きに矯正されることで
右利き中心に作られる道具を難なく使えるし
集団生活で困らなくはなります。
でも、左利きだったら、細かい作業ができたかもしれないのに、右利きになってしまったので
細かい作業が苦手で、それが自己肯定感を下げてしまう可能性もあります。

なので、矯正されることですべて幸せとは
限りません。


ただ、矯正されることで
周りからの差別も減るので

どちらを選択するか?

は個人の自由です。



ただ、私はASDで、
集団生活よりも自分の成長のほうに
幸せを感じるので
左利きのまま、生きたかったなぁ、と
思います。

今は昔よりは、左利きでオッケーな世界には
なっているので、
差別の度合いもどうなんでしょうね?



左利き同様、発達障害も同じようなことが
言えると思います。

定型発達の人達の世界観にのみ
合わせる努力と定型発達優勢的見地からの変化の強要(悪い言い方をすれば「発達障害の矯正」とも言える行為)は、発達障害の人々の世界を否定しています。

しかし集団生活をおくるために、
ある程度の立ち振舞いを知らないと
集団生活のストレス過多です。



なので、定型発達の人々との集団生活は
おくれる努力をしつつ、発達障害の部分は
肯定して、がいいなぁ、と思います。


次回から、エピソード編にうつります。