Northern Lightsを待ちながら。

Northern Lightsを待ちながら。

オーロラ待ちする時間、これが一番好きな時間の過ごし方。
きーんと澄んだ空気の中で、自分と向き合う時間、いろんなことを徒然と。

昔、スコットランド、エディンバラに住んでいました。乙女のトキメキ

当時は、お金もビザもなく、観光ビザで暮らしていました。

仕事もするつもりもなかったし、しばらく住めたらいいなあ、な感じでした。

 

イギリスは半年の観光ビザが出るので、とりあえず半年暮らしてみよう、と、友達のバグパイプ職人のお家に居候。

 

 

仕事を辞めてでもエディンバラに行こうとしていた私。

でも、家族からの大反対を受けていました。そりゃそうですよ、職場は、京都でも名の知れたお寺でしたから。

 

でも、その時の私は…今行かなかったら、多分一生、行けない。って思ったんです。

 

だから、その家族を説得するために、そのエディンバラの大親友が、日本まで来てくれました。

 

「お俺が面倒見てやる!炎」と言ってくれたのです。

 

そんな彼の心意気に、大反対していた日本の家族もひと安心。ラブラブ

 

慣れ親しんだお寺の保育園に退職届を出し、一路、憧れていたスコットランドへ行ったのです。

 

当時は私、バグパイプを演奏していました。

 

 

サブの楽器はフィドル。ヴァイオリンは、民族音楽を演奏するとフィドル、と名前が変わります。

後日、フィドルを持って行っててよかった…不安と思う事件も起こりました…が、それはまた今度…。

 

90年代に就職して、毎年長いお休みをとってイギリスイギリスに行っていました。初めの頃は、ロンドン一択でしたが、バグパイプをするためにスコットランドへ足を伸ばすようになっていました。

 

が。

 

当時は今みたいにズームなんかで話したり、なんて夢の話で。悲しい

日本にいながら、たまに電話で練習の成果を聴いてもらったり…でも、なかなかひとりで、できるものじゃなかったです。私にはね。

 

演奏している人も身近にいなかったので、もうこれは行くしかない!と腹を括って移住したんです。乙女のトキメキ

 

なんでバグパイプかって?

 

それは、子どもの頃、大好きなばあちゃんが「これが私の1番好きな楽器。バグパイプって言うんよ」って言ったから。ニコニコ

 

ずっとずっと、その楽器を自分で演奏して、ばあちゃんに聴かせたい、と思って育ちました。ルンルン

 

今でも、恥ずかしいくらいに、全く上手に演奏できません。泣き笑い

 

それでも音楽やりたくて、大好きだった仕事を辞め、大好きな京都を離れ、安定したキャリアを捨ててでも…

 

この道を選んで本当によかった指差し

 

嘘のような、本当のはなし。

 

 

 

小さい頃から、音が色で見えていました。指差し

時々、ちょっとうるさいなあ、と思うこともあるんだけど。

今は意識的にその「目」をシャット・ダウンすることもできます。

 

小学校のとき、音楽の授業で「こころのテレビテレビ」を使って、音楽をイメージする、という授業がありました。そこで初めて、見えている色を体系化することができました。カラーパレット

 

だから、音色っていうのか!と気がついた瞬間でもありました。音符

 

私の行った小学校は、ちょっと変わった教育をする、大学附属の学校でしたが、私にはとてもしっくりくるもので、この学校に受験してでも入れてくれた両親に感謝しかありません。

 

ま、父さんはめちゃくちゃな人で、途中から離婚して母子家庭になったけど、それでも乗り越えられたのは、子ども時代を、学校と母方のばあちゃんちで過ごせた楽しい思い出があるからだ、と思っています。ニコニコ

 

さて。

 

自分でも下手なりに演奏するのですが、気になる音があります。

いつもその音を聞くと、ずん!と心に響いて…一回沈んで、ふわっと浮いてくる感じ。一個だけでなく、それはコードで…

 

英語ではうまく言えないけど、「切なくなる」音乙女のトキメキ。でも、悲しくない。そして、その「おと」の世界に住んでいるのが、私の好きなひとたち。また別の話になるけど、そのひとたちは、持ってる言葉が「白い」のね。雪の結晶

 

その「白い言葉を持つひとたち雪の結晶」が、多分、私の好きなひと、なんです。

 

ここ数日、昔からそんな思いで聴いていた曲がまたエンドレスで頭を回るようになったので、楽譜をダウンロード。ミュージシャンの夫に弾いてもらいました。注意深く、音をひとつひとつ…

 

「こころのテレビ」を開いて聴いていると…そうそう!

やっと、その本質が、わかった!

 

その色は、紫と黄色、その次が、緑。やや、青。

それらが、今まで見てきたオーロラと同じように、揺れている。

 

 

なるほど。

自分が、オーロラの色だと認識している色たちと「同じような流れ方」をする音楽に、惹かれるんだな。その順番が大事なのね、順番。

 

なぜ、オーロラに惹かれるのか。

なぜ、特定の音を聞くと、胸が締め付けられるけど、幸せな気持ちになるのか。

 

やっと謎が解けた。

演奏していた夫は、なんのこっちゃ、みたいな顔してたけど、嬉しくてハイタッチ。

 

これから描く絵は、もっともっといいものに、なりそうです。

ふふふ。

 

おかげさまです。

ありがとう。

 

 

↑写真は、義理のお兄さんが撮ったオーロラの写真です。

晩夏から常にオーロラの写真を撮って暮らしています。乙女のトキメキ

昔、暮らしていたスコットランドのエディンバラに、推しの銅像があります。私は、銅像が好きですピンクハート

 

一番好きな銅像はアメリカにあるんですが、今日はスコットランドの話。

 

銅製でない場合もあるので、その際は「像」って呼ばなあかんやろけど、いまは銅像でいいですかね。

 

さて。話を戻します。

その銅像の「彼」は、プリンシズ・ガーデンの中に居てはります。

 

 

これが、「彼」。Scottish American Memorialです。

タイトルの通り、第一次世界大戦で招集(The Call)されたアメリカ系スコットランド人を称えるために建てられました。

 

この「彼」が見つめているのは、エディンバラ城。

 

暮らしていた時は、時間を見つけては、キルトを身につけた「彼」と一緒に佇んでいました。私はこの銅像の「彼」と夜を明かしたことがありますが、それはまた別のお話。ニコニコ

 

この銅像についてのお話はここでは書きませんが、第二の故郷、京都にも似たような銅像があります。

 

それが、この方です。↓

 

通称「三条土下座前」。指差し

三条京阪前で待ち合わせするときは、よく使いましたね。

「彦九郎前で!」とか「三条土下座前」とかって。

 

京都に入る前、御所に向かって礼をしていた彦九郎さん。キラキラ

その姿勢が土下座っぽいのでこう呼ばれているけれど。

47歳で自刃されたそうですが、別の形で今の時代を「生きている」。

 

エディンバラの「彼」も、彦九郎さんも、その服装、姿勢、目線が全てを語っています…銅像なんだけど。

 

いろんな時代を、この場所で見てきたんですね。ニコニコ

そして、各時代の街の風景に溶け込んできた。

…まるで、絵本の「ちいさいおうち」のように。

 

なんだか素敵。

私の心を鷲掴みにするんだよなあ…銅像なんだけど!看板持ち

 

私の実家は、古代から戦後にかけて、繰り返し干拓が行われてきた場所にあります。

 

それもあって、地域の町名が新たに付けられたもので、強いて言えば、とても…かわいい。

 

海を彷彿とさせる名前も多いですが、近代風の名前も多いのが特徴的です。ひらがなの町名もあって、なんともいえず、可愛らしい。

 

新しく作られた町には、その時代に合わせた名前がつくこともある。新しい町には歴史はないかもしれないけれど、そこから歴史を作っていく楽しみがあります。

 

南スウェーデンに、ルンドという素敵な街があります。いろんなご縁で、ここにも自分のルーツができました。


ある晩夏、初めてその街を訪れた時、通りの名前に目が行きました。

 

町、という日本のような区切りはないけれど、ヨーロッパには通りに名前がついている地域が多いです。まるで、京都のように。

 

…で、どんな名前だったかって?

朧げに覚えた単語が並んでいて…

 

え、待って、なんでそんな名前なの?!

 

 

その地域は「ブラネート・スターデン(Planetstaden)」という名前で、日本語では「惑星都市」という名前。

 

各通りには、星座や天文系の名前がつけられているんです。

 

…素敵にも、程があるよね?

 

「じゃあ、おばあちゃんのお家は、何通りにあるの?」

 

「Lilla Björnens Gränd。」

 

「えええ、めっちゃかわいい!じゃあ、おばあちゃんちで、待ち合わせとかする時って…」

 

「今夜、『こぐま座通り』で会いましょう、かな?」

 

 

…今夜、こぐま座通りで会いましょう。

 

なんだか、素敵なことが起きそうな、夜!

 

 

お久しぶりです。

約2年も帰って来れませんでした。

言い訳はたくさんあるものの…

 

とりあえず、この2年間で大学に編入し、卒業。

この大学、実は2回目の卒業です。

以前は、別の科に在籍していましたが今回は日本画。

現役では、京都の某大学のデザイン科で、視覚伝達デザインを学んでいた私。


しかし、私の時代にマニュアルでの制作から、デジタルに変化したデザイン業界。

 

写真をカッターで切り抜いて合成する、ムラなくガッシュを塗る、などの技術が使えなくなっていました。

 

学んだことは大いに役立つことは多かったけれど、デジタルを1から学ぼうとは思えない時代でした。

だから、アートは趣味と割り切って、しばらく他の業種でのキャリアを積んでいました。

 

まあ、このキャリア、今では天職やと思ってますが。

 

しかし、どうしてもアートの世界に戻りたい気持ちは収まらず。そして編入したのが、京都芸術大学。

 

 

海外在住でも日本に住所さえあれば、編入学できました。まずはそこで、現役時代に履修できなかった博物館学芸員課程を履修、卒業。

 

 

通信制大学のくせに(笑)なんて、面白い大学なんだと、その大学の「色」に魅了されました。

 

 

今度は、長年学びたかった日本画の世界へ飛び込みました。画塾で日本画を学んでいたものの、やはりアカデミックな中で学んだほうがいいと、師事していた先生に言われたのです。

 

それからは、時差と距離との戦いでしたね。

 

作品提出や画材の入手、パネルが日本独自のサイズであったことなど、困難を極めました。

 

授業は通信でも、一回でも落とすと一年やり直しだったため、入学と同時に卒業制作までの計画を練り、履修開始。

 

授業は金曜日に仕事を終えると、すぐ23時まで仮眠

24時過ぎからの授業に遅れないよう、ひつこいくらいのアラームをセット。翌朝10時くらいまでの授業でした。これが二日間続き、多い時は3週間連続。

課題も多く、2年間の提出物を編入と同時に全て計画、画材は紙一枚に至るまで日本から取り寄せました。

 

これには、日本でハブになって下さったお友達の存在が不可欠で。彼女は、自宅のポストに私の名前も足してくれて、家族のように助けてくれました。

 

感謝しても仕切れない。

卒業できたのは、彼女のおかげでもあります。

そして絵の助言、深夜のアラームにも2年間文句もなく、快くサポートしてくれたパトロンでもある夫のおかげでもあります。

 

卒業間際には、また別の幼馴染が、自身も超多忙にあるにも関わらず、快くサポートをしてくれました。

彼のおかげで、作品の搬入搬出もつつがなく進められました。その幼馴染は、私の作品を初めて正規の値段で購入してくれた人でもあります。

 

 

これで、自分のことを「日本画家」と呼ぶことができました。

 

そんなこんなで、2年間駆け抜けました。

後半は体調も崩し、同じ時間で学べたら

どんなに楽しいだろうとまで思っていましたが。

 

海外で日本画を学ぶとは、本当に難しいのだなと

実感した時間でした。

 

ま、これが、2年間ほど(3年近いですね…)ブログを書けなかった言い訳ですな。

 

日本画は本当に奥が深い。

 

これからも、少しずつ頑張ろうと思います。

ありがとうございます。