中央アジア巡礼行記 2023年

19 アク・ベシム遺跡

 

 

 ブラナ村の民宿での一夜が明けた。朝食はマンティを出してくれた。味付けはケチャップなので、気取らない味がする。

 

 9時、結局口をつけなかった「シャウルマ」はこの家の飼い犬に進呈し、おかあさんに別れを告げて宿を出る。一泊しかしていないのに、とても名残惜しい気がする。

 今日はブラナ村の北北西方向にあるアク・ベシム遺跡まで歩いて行くことにしている。遺跡までの道のりは約11.5キロメートル、その後トクマクのバスターミナルまではさらに9キロメートル。数時間あれば歩けるだろう。

 

 宿のおかあさんはアク・ベシム遺跡の発掘を手伝ったこともあるそうで、何人か日本人の名前を挙げた。彼女によれば、ブラナ・タワーのそばからも遺跡の方へ抜ける道があるという。しかし、かえって遠回りのようにも思えるので、事前に調べておいた道をたどることにする。

 

 

 

 ブラナ村を通り抜け、マルシルートカも走る道路に出ると、ポプラ並木に囲まれたモスクがあった。ドーム屋根やミナレットが金属板で出来ているのか、叩いたらペカペカと音がしそうな色に光っている。

 

 

 

 そのモスクの先でブラナ村が尽き、耕地が広がる。しかし、耕地ひと区画を北側に隔てただけで隣村であるカリグル村の家並みが始まっている。こちらの村も未舗装の道が何条か走るだけのわびし気な村ではある。村の北端には、ブラナ村とよく似たスタイルのモスクが建てられていた。

 

 

 

 集落の北端で未舗装のクルマ道に出て左折し、カリグル村を抜けると視界が開けた。清々しい空気の中、左手には雪山が昨夕にも増してくっきりと望まれる。手前の牧草地には馬が放たれていた。

 

 

 次の村までの中間には墓地があった。ブラナ村の墓地のような塔屋は見られず、三日月を突き出した背の高い墓石が並んでいる。

 

 

 

 砂利道が舗装道路に合流した先で、東西に流れる用水路「カナル・オスマン」に沿う道を西へ折れる。水路の両側には、掻い出した土が土手のように盛り上がって続いていた。

 用水路沿いを1キロメートルほど行くと、木立に囲まれた集落に入る。その手前ではたくさんの人が出て、キャベツを収穫していた。中学生か高校生くらいに見える若い人たちが多い。寄宿学校の生徒たちなのだろう。この先の集落の名前自体が「寄宿学校」と言う意味なのである。

 

 

 

 その「寄宿学校」村を抜けたところで、用水路と直角に交わる小川に沿う道に入る。こちらは自然の川なので、流れに沿って土の崖ができている。ところが、岸辺はゴミ捨て場になってしまっていた。公認の処分場なのか不法投棄なのかはわからないが、様々なゴミが地面に放置されたままになっている。

 

 

 

 

 不快な道が数百メートルも続いた後で、ようやく地上のゴミがなくなった。冷たい風がかえって爽快に感じられる。このあたりの耕地はとうもろこし畑が多いけれども、実ったまま立ち枯れて茶色くなっているところが多い。これらは飼料用なのだろうか。

 

 

 小川沿いの道が、トクマクからくる車道に出る手前、左手には既に収穫を終えた広い畑が広がっていた。トラクターが1台行ったり来たりしているのが見える。このあたりが、唐代に栄えた都市、スィヤーブの場所である。アク・ベシム遺跡を発掘調査している帝京大学の報告書を読むと、長方形をした都市遺跡はソグド人が作った交易都市シャフリスタンであって、スィヤーブはその南東側に張り出すようにつくられた都市だと書いてある。しかしながら、都市名としてはスィヤーブの名が全体に通用しているようだ。

 

 

 トクマクからの車道に出たので、左に折れ西へ向かう。ほどなく池があり、その先に一段高くなったシャフリスタンの城壁跡が見えてきた。

 遺跡への入口にはユネスコが設置した黒御影石のものをはじめ、いくつかの案内板が立てられている。しかし、他に施設と呼べるものは何もない。もちろんトイレもない。ついでに言えば訪問者も自分以外、誰もいない。

 

 

 

 

 

 往時の門があったと思しきところから城壁に上がって、時計回りに歩いてゆく。城壁はほとんどが砂丘列の連なりのようになってしまっているけれども、今でもはっきりと残っている。城外に向けてはかなりの高低差があるので、十分防御の役に立ったことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 城内側を見ると、何カ所か発掘がなされた場所もある。例によって、土の壁がわかるだけで、何の建物だったのかも推測しがたい。

 

 

 

 

 

 

 

 遺跡の南東隅にはひときわ高くなったシタデル状の一角がある。その頂上まで行って、休憩。時刻は12時30分、リュックサックに入れたままになっていたノンを齧っておく。

 

 

 

 

 30分休んで、再び歩き出す。トクマクへの車道に出て500メートルあまり行ったところで、右に折れる。すると、耕地のなかに土手があり、農道がその上を通ったり脇に沿ったりして続いていた。

 これこそ、スィヤーブの東壁である。この城壁は南へ約600メートル続き、その先で西へ折れ、さらに200メートル程続いている。その先は1960年代に耕地に取り込まれて破壊されてしまったのだという。

 

 

 

 

 部分的にしか残っていない南壁はさらに保存状態がよく、馬面が残っているのが衛星写真でも見て取れる。現地に立つと、土盛りが崩れたようにしか見えないのけれども、規則的な間隔で円形に張り出しているのだから馬面に間違いはないだろう。

 このスィヤーブ東壁と南壁は、先述したユネスコの案内板にも存在が記されている。にもかかわらず認知度が低く、たいていの訪問者はシャフリスタンの遺跡部分を見ただけで帰ってしまうようだ。

 残念ながら、スィヤーブの城内は全て耕地となっていて、城壁以外の遺構は地上に残っていない。シャフリスタンよりも一段低い土地であり、都市としての存続期間も一世紀に満たなかったかったようだから、これはいたしかたない。

 あの玄奘三蔵もこの地を訪れている。けれども、大唐西域記の記述は簡明に過ぎる。シャフリスタンとスィヤーブが併存していた時代と思われるのだが、その区別もない。その上、現代の旅行者とは視点が違うので、読んでみても往時を偲ぶのは難しい。

 

 

 

 遺跡に来るときに小川沿いの道から見たトラクターは、収穫したカブを集めるために動いていたものだった。カブといっても大根のように太くて大きい種類である。荷車に乗った子どもたちがこちらに向かって手を振っていた。

 

 

 

 

 車道に戻り、トクマクを目指して再び歩き出す。ビシュケクからイシククル湖畔へ伸びる鉄道の踏切を越え、さらに数百メートル行くとアク・ベシム村の西端にたどり着いた。この村は東西に約3キロメートルにわたって延びる細長い村である。すると、向こうから219番のプレートを掲げたマルシルートカがやって来て、道端の空き地で停車した。運転手に尋ねるとすぐに折り返すと言うので、乗車して発車を待つ。14時ちょうどの発車であった。さすがに自動車は速く、たちまちのうちにトクマクへ戻る事ができた。たったの20ソム(32円)でラクができたなと思う。

 バスターミナルのタクシー運転手たちは、アク・ベシム遺跡にはマルシルートカもないと言っていたのだが、この路線を使えば終点から約2キロメートル歩くだけで遺跡に到達できるのであった。

 但し、この路線はバスターミナル構内に入らず、その東側の道を通りトクマクの中心部とを結んでいる。だからターミナルに掲出の時刻表にも載っていないので、時刻はわからない。

 

<20 ビシュケク発317列車 に続く>

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