中央アジア巡礼行記 2023年

18 ブラナ村

 

 トクマクのバスターミナルに戻り、212番のマルシルートカを待つ。次の発車は13時である。その間にも、タクシーの運転手たちが声をかけてくる。ブラナ・タワーとアク・ベシム遺跡を回ってくれて、価格も高いものではない。確かにタクシーを使えば効率的に見どころを見て回ることができるだろう。しかし、私の旅行は仕事ではないから、効率などどうでもよい。何より今夜の宿はブラナ・タワー近くに予約してあるのだ。彼らには「時間はたっぷりあるからマルシルートカで行く」と答えた。

 ところが、12時を30分過ぎてもマルシルートカはやってこなかった。他にこの便を待っているお客も見当たらない。乗客がいないのを見越してキャンセルされてしまったようだ。仕方がないので、タクシーの世話になってブラナ・タワーに直接、乗り付けた。

 

 

 ブラナ・タワーは11世紀から12世紀にかけて、カラハン朝やそれを滅ぼした西遼(カラ・キタイ)の都だったバラサグンの遺構である。今日の目で見ると、このあたりは高山に囲まれて牧草地や畑が広がる何の変哲もない谷間に過ぎない。けれども、明日訪れる予定の唐代のアク・ベシム遺跡とともに、長きにわたりシルクロードの一部である交易都市が栄えてきたのだ。

 

 

 

 

 遺跡の入口にはユネスコが作った案内板があり、それによればブラナ・タワーを中心にして、いくつかの古墳や二重の城壁が検出されているとのことだ。しかし、実際に目にすることが出来るのは、塔を別にすれば、城砦らしき大きな土盛りと、あちこちから運ばれてきた石人ばかりである。

 

 

 まず、その石人群を見て回る。手に三角形の盃をつまんでいるのがわかる。これがスキタイの石人かと思うと感慨もひとしおだ。スキタイと言えば、ウクライナでも博物館に展示されていた石人を見たことがあるけれども、あちらはトーテムポールのようにひょろひょろと背が高かった記憶がある。そもそもウクライナのスキタイとカザフやキルギスのスキタイとの関係がさっぱり分からない。遊牧民族なら何でもスキタイと呼んでいるかのようでもある。

 石人は大部分が男性像なのだが、稀に女性を表したものもあるそうだ。しかし、それらしき像は見つけられなかった。

 

 

 

 歩き回ったので、Tシャツ1枚でちょうどいいくらいに暑くなった。マウンドの上に上がって、周囲を見渡す。ここでも塔の背後には雪をかぶったキルギス・アラ=トー山脈が連なり、遺跡に雄大さを加えている。この雪山を越えたはるか南にオシやバトケンといった南部諸州がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 続いて、塔に上がる。狭いらせん階段を抜けて、屋上に出る。先ほどのマウンドよりも一段と遠くまで見渡せるし、何より風が心地よい。北側には遠くトクマクのビルや工場が白く光り、その向こうの山塊はもうカザフスタン領である。キルギスとは統一するに困難な国だなとつくづく実感する。

 

 

 

 思っていたよりも整備され、訪問客も多かったブラナ・タワーを後に、宿を取ったブラナ村まで歩く。1.2キロメートル程だからすぐに着く。遺跡の門のところから黒犬が1匹、ずっとついてきた。カバンの中のシャウルマが匂うのだろうか。村のはずれあたりにもバラサグンの外城壁があるはずだが、全くわからない。

 

 

 予約した宿はゲストハウスと称しているが、民宿と呼んだ方がしっくりくる、つまりは、ただの民家であった。客室は一家が使っている食堂兼台所を通り、居間を抜けた先にあった。

 

 

 30平米以上ありそうな大きな部屋にベッドが二つと、二段ベッドがひとつ。玄関先で靴を脱いで、フローリングやじゅうたん敷きの床を歩くので、日本の家に上がり込んだような感覚にとらわれる。窓のサッシはしっかりした二重ガラスで、セントラルヒーティングも入っている。しかし、照明は天井に開けた穴から裸電球が下がっているだけでしかない。家には若夫婦も同居していて、赤ん坊用のバギーが部屋の隅に置いてある。

 

 

 出迎えてくれた家のおかあさんが、夕食はどうするかと聞くので、用意してあると答える。それなら、おやつを食べなよということで、食堂のテーブルにつく。自家製のパンにバターやハチミツをつけて食べる。これがたいそう美味で、何個も食べてしまう。皿に黒砂糖のようなものが載っているのはハルバというお菓子だそうで、実見するのは初めてだ。材料は「種」だと言う。たしかにゴマのような風味がある。

 おかあさんがスマートフォンの翻訳機能で「家がまだ工事中で十分なもてなしができなくてごめんなさい」と英語の文章を示す。

 

 

 

 

 おなかがくちくなったので、散歩に出る。ブラナ村は南北方向に4条、東西方向に5条の道で区画された1辺200メートル程の区画で成り立っている。商店などはひとつもなく、未舗装の侘し気な通りに寄棟屋根の農家が点在しているばかりだ。それでも人口は700人程もいて、遊び回る子どもたちの姿も見える。

 

 

 

 

 

 折しも夕暮れ時のこととて、牧草地から牛や馬、羊を畜舎に連れて帰る時間である。牛はカウベルの代わりに、剣型の金属片を引きずっていて、それがカラカラと音を立てている。

 

 

 村の南側には墓地があった。石積みの低い塔があって、住居よりもがっしりとした造りだ。

 

 

 

 

 

 西側の道に入ると、牧草地の向こうにブラナ・タワーを望めた。写真を撮っていると、馬に乗った人が通りかかった。汗血馬の末裔なのか、小柄ながらも毛づやの良い馬である。

 

 宿の前に戻ってくると、トクマクからのマルシルートカがブラナ・タワー方向へ走り去って行くのが見えた。17時26分、夕方の便はさすがにちゃんと運行しているらしい。

 

 

 部屋に戻ると、リンゴの差し入れが届いた。馬と同様、小さめだけどおいしいリンゴである。さっきのおやつとこのリンゴで十分、夕飯代わりになった。

 

 ところで、この家、トイレは昔ながらの外トイレであった。ペーパーだけは上質なものを備え付けていたけれども、床に楔形の穴をあけただけの中央アジア・スタイルだ。手を洗うのは玄関の外、ドアの横につくられた洗面台でする。

 そういうわけだから、風呂やシャワーはない。(家の人たちはどうしているのか?)おかあさんは「いいレビューを書いてね」と言ったが、この設備を考えると万人向けとは言えないだろう。しかし、今回の旅行で一番印象に残った宿泊施設はこの民宿である。村に泊まる予定を立てて本当に良かったと思う。

 夜中にトイレに行ったら、この家の黒犬がついてきた。見知らぬ人間であっても吠えたりしない、おとなしい犬だ。

 

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