9月、この往復の間のお出かけです。
あらかじめのお詫びm(_ _)m
今回、文字数がやたらと多く、無駄に長くなってしまいました。
まあ、冬休みの宿題みたいなものです。
 
なのでお時間のある時にでも…
 
 
朝鮮王朝時代のお話です。
 
1392年、李成桂(い・そんげ)=太祖(てじょ)を初代国王とする朝鮮王朝が成立。
 
初代太祖時代から正宮として君臨してきたのが、巨大な「景福宮(きょんぼっくん)」。
(撮影月 6月)
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しかし1592年、文禄・慶長の役の際に14代王「宣祖(そんじょ)」は都を放棄。
景福宮は暴徒により放火されてしまいます(豊臣軍が都に到達した際には、既にかなりの部分が焼失していたと云われています)。
 
時代劇「ホジュン」に、燃える王宮から貴重な資料を運び出そうとするホ・ジュンたちが暴徒に襲われるというシーンがありました。
 
景福宮はその後、「縁起が悪い」という理由から放棄されてしまいます。
しかし、太祖が「風水最強」として造営した景福宮を再建しなかったのは、財政的に再建が無理など、極めて現実的な理由からだったと思えます。
 
景福宮に代わり正宮となったのが、東の離宮だった「昌徳宮(ちゃんどっくん)」。
昌徳宮もやはり文禄・慶長の役の際に焼失していますが、15代王「光海君(くぁんへぐん)」により、1615年から再建が始まります。
(撮影月 6月)
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同じく文禄・慶長の役の際に焼失し、光海君により昌徳宮と同時期に再建されたのが、昌徳宮の東の離宮「昌慶宮(ちゃんぎょんぐん)」。
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光海君はクーデタにより王座を追われたため、クーデタを正当化するその後の勢力により「暴君」とされていますが、その施策はかなり合理的、実務的でした。
 
巨大な景福宮の再建を諦め、昌徳宮を正宮、昌慶宮を離宮として再建したのも、極めて実務的な発想のように思えます。
 
しかし、そんな合理性が利益誘導を狙う勢力の反感を買い、敵対視される原因ともなってしまったようです。
歴史の皮肉と感じるのは、15代王、光海君の時代以降再建される事の無かった巨大な景福宮を現在の形に再建したのは、王朝末期の26代王「高宗(こじょん)」の父として時代を牛耳った怪物、「興宣大院君(ふんそんてうぉんぐん 以下「大院君」)」でした。
 
国の近代化が喫緊の課題だった1865年に、「王朝の威光を再来させる」として大院君が強引に再建に着手。そのために要した費用は当時の国家予算に匹敵するとも云われ、現在価値での換算は不明ですが、おそらく「兆」に近かった事は間違いなさそうです。
 
それ程の巨費を投じて再建された景福宮ですが、結局のところ、大院君が高宗妃「明成王后(みょんそんわんふ 〔閔妃〕)」の派閥を牽制する以上の意味を持つ事は無く、その後は僅か30年で主を失い、正直なところ現在の史跡としての価値以外に、再建の意味を見い出す事は出来ません。
 
国の財政を逼迫させる程の再建費用を、近代化のために有効に用いていれば、現在の様相は少し異なるものになっていた可能性が、なんてつい空想してしまいます。
 
まあそんな風に、何時も権力争いと陰謀の渦巻く王朝(Dynasty)ですが、昌慶宮は専ら王族の私的な場だったため、時代劇に登場する数々の事件の舞台となりました。
 
昌慶宮の正門、「弘化門(ほんふぁむん)」。
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1484年に原型の門が完成。光海君時代の1616年に再建されました。
王宮の正門は通常南入りなのですが、何故か東向きに建っています。
その理由は… 諸説あるようですが、よく分かりません(^^ゞ
 
弘化門を入ると、15世紀後半の姿が残る、石造の「玉川橋(おっちょんぎょ)」。
橋を渡った向こうには、正殿に至る「明政門(みょんじょんむん)」。
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正殿まで門三基が標準的ですが、ひとつ省略されています。
 
明政門の先に、正殿(法殿)の「明政殿(みょんじょんじょん)」。
明政門と明政殿は、光海君が再建した1616年のまま、築400年と云われています。
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この時、一天俄に掻き曇り、いきなりの大雨。風雲急を告げる何事か…
折り畳み傘の骨が折れ、往生しました…
 
愚痴はともかく、明政殿では、様々な陰謀の発端となる儀式が行われました。
 
まずは1544年、王朝史上最も影の薄い12代王、仁宗(いんじょん) *1 がここで即位します。
*1 仁宗(いんじょん); ドラマ「チャングム」の11代王、中宗の二人目の王妃との子。
在位期間僅か8ヶ月で王朝史上最短。ドラマにはあまり登場しないのに、いつも大事件の原因。
継母の文定王后(むんじょんわんふ)に疎まれ続け、文定王后(大妃)により消された説が有力。
 
「チャングム」では、文定王后がチャングムに「あの子を消して…」と持ち掛ける。
「天命」では序盤で毒殺されかけ、主人公の逃亡劇の原因となる等々。
 
明政殿の前庭。臣下を並べて睥睨したります。
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ここでちょっと寄り道。
 
仁宗の父、「チャングム」の食いしん坊な11代王、中宗が薨御したのが、明政殿の北西に建つ「歓慶殿(ふぁんぎょんじょん)」。
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文禄・慶長の役、李适(いぐぁる)の乱、1830年大火と三度焼失、現在は4代目。
中宗時代の初代歓慶殿は、今よりも大規模で意匠も異なっていたようですが、まあ、そのあたりは気分次第。
 
また、ドラマでは王様は広間に寝ていますが、実際はこんな感じだったようです。
黄色の床はオンドル床暖房の部分。そうでなければ寒くて仕方ないですよね。
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手前の板間に、従者が控えたのでしょうか。
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歓慶殿内部は公開されていなかったので、室内写真は別の建物です。
 
「王様、しっかりなさってください!」
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なんて空想を、ついしてしまいます。
 
中宗が薨御すると、中宗の三人目の王妃「文定王后(むんじょんわんふ)」が暗躍する時代を迎えます。
 
明政殿再び。
「日月五嶽図(いるうぉるおあっと)」を背負う玉座(王様専用席)。
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文定王后は自分の子、明宗(みんじょん) *2 を何が何でも玉座に就けたい。
しかし中宗が薨御した時、明宗はまだ10歳。
そこで前の王后「章敬王后(ちゃんぎょんわんふ)」の子、29歳の仁宗が、12代王として即位します。
*2 即位前なので、名は「慶原大君(きょんうぉんてぐん)」ですが、名前変えに弱いので、王になった人は基本的に「廟号」で統一してしまいます。
 
「あの時チャングムが消さないから…」とは思っても、めげない文定王后、仁宗に一服盛り(と専らの噂)、排除に見事成功。仁宗30歳、在位期間、わずか8ヶ月…
 
1545年、文定王后は11歳の我が子を、晴れて13代王「明宗」として即位させます。
そして自らは「文定大妃(むんじょん・てび=王の母)」 *3 として幼王を操り、もうやりたい放題。
*3 これは個人的な造語です。正式な名は「聖烈大王大妃」か何かですが、やはり名前変えに弱いので、王后時代の名+ポジションとしています。以降も基本的に同じ。
 
そうそう、「チャングム」の終盤、「復権は二代先の王に委ねる」との罪を着せられたミン・ジョンホが、超短期に過ぎた仁宗時代のお陰で復活します。
 
明政殿の天井にある鳳凰のレリーフ。こちらも400年の時を経ているのかな。
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文定大妃の暴走はまだまだ続きます、
 
文定大妃、明宗の後継者の準備にも余念がありません。
 
まずは、まだ10歳の我が子、明宗を政略結婚させます。
お相手は、「仁順王后(いんすんわんふ)」。何とこちらは12歳。
 
それでもこのふたりは仲が良かったのか、1551年に「順懐世子(すねせじゃ)」が誕生します。17歳のパパと19歳のママでした。
 
順懐世子9歳。文定大妃は「そろそろ孫もお年頃♡」と、またしても政略結婚を準備。
まだ早いと反対する明宗と仁順王后(パパとママ)を、「あんたたちの結婚も似たようなものだったでしょ!」と押し切り、結婚を強行。
 
しかし、お相手がいまいち気に入らず(前参奉 黄大任の娘としか呼ばない…)、
 
「あ、この子駄目。孫嫁交換!」
 
1561年、「恭懷嬪 尹氏(こんへびん ゆんし)」との結婚を再び強行。
順懐世子と恭懷嬪、ともに10歳でした(恭懷嬪は推定年齢)。
 
この結婚式が行われたのが、17年前、仁宗が即位した明政殿。
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仁宗を○○したのは… 不吉、とか考えなかったのかなあ。
 
この辺りは、時代劇「女人天下」、「魔女宝鑑」。
他にもファンタジー系時代劇のモデルに使われているようです。
 
しかし、文定大妃の願いも虚しく、順懐世子は結婚後2年、1563年に僅か12歳で夭折してしまいます。恭懷嬪、12歳にして寡婦!
 
しかも明宗には、順懐世子以外の男子が生まれません(後宮だってあるのに…)。
 
文定大妃、これはさすがに堪えたのか、孫、順懐世子の後を追うかのように、2年後の1565年に薨去します。享年64歳、波乱万丈の生涯でした。
 
明政殿の凝ったつくりの格子。光海君のこだわりだったのでしょうか。
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しかし、これで終わらないのが宮廷の女性陣。
 
影響力絶大な姑と子を失い、先行きの危うさを感じた仁順王后は、亡き舅、中宗の側室の子「徳興君(庶七男第9王子)」の三男、甥にあたる「河城君(はそんぐん) 後の14代王『宣祖(そんじょ)』」を実質上の養子にします。
 
この時13歳の河城君(1552年生れ)を養子にしたのは、年齢が亡き子順懐世子とひとつ違いというだけではなく、庶七男-三男、つまり末子の末子という傍系中の傍系なので、他からの影響を受けないという狙いがあったようです。
12歳で嫁ぎ、強烈な姑から学習し、33歳となった仁順王后、流石にしたたかです。
 
この読みは当たり、文定大妃薨去からわずか2年後の1567年に、明宗は33歳で薨御してしまいます。
母と妻との板挟みの気苦労が祟ったのか、それとも仁順王后、まさか夫に何かを盛ったりしてませんよね…
 
(明宗の薨御により急遽、宣祖を推挙したというのがあくまでも公式見解です。)
 
いずれにせよそんな経過から14代王、宣祖は1567年に即位した時、まだ15歳。
後ろ盾は仁順王后しか無く、やはり操り人形とされてしまったに違いありません。
 
更に、傍系の宣祖が王位に就く事で、それまでの王族の親戚同士による勢力争いが、王に影響力を持つ旗印(多くは大妃)に集まる、官僚達の派閥抗争へと様相が変化し、より熾烈になってゆきます。
 
韓国時代劇に頻繁に登場する党派、「南人」だの「老論」だのってやつです。

12歳で宮廷に嫁ぎ、13歳で王妃。35歳で14代王、宣祖の実質上の大妃(てび 王の母)という運命を送った仁順王后ですが、1575年に43歳でその生涯を閉じます。
 
そんな仁順王后が最期まで過ごしたのが、「通明殿(とんみょんじょん)」。
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通明殿は幾度も災難に遭い、現在の建物は1833~4年に建てられた多分4代目。
実際に仁順王后が過ごしたのは初代の建物なので、厳密に言えば異なるのですが、まあ、時代劇の気分に浸るという事で、細かい事は気にしません。
 
通明殿の東隣に建つのが「養和堂(やんふぁだん)」。
手前の大きな岩盤を利用したような造りになっています。
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この建物も、文禄・慶長の役、李适(いぐぁる)の乱、1830年大火と三度焼失。
現在は多分4代目です。
養和堂に関しては、「『丙子の役』で焼失」と説明される事も多いのですが、個人的にはそれは無かったのではないかと思います。その訳は後述するつもりです。
 
養和堂の主といえば何といっても、14代王、宣祖の寵愛を一心に受け、4男5女をもうけた側室の「仁嬪 金氏(いんびん きむし)」。
 
因果の歯車はここでも回り、仁嬪は元々、仁順王后が通明殿に出入りさせていた女の子でした(女官ではなく、行儀見習いみたいな感じでしょうか)。
仁順王后の存命中に宣祖の側室となっているので、おそらく王后の息がかかっていた筈です。
 
仁嬪は、宣祖の寵愛を笠に着て反対勢力を牽制し、宣祖の目が自分にだけ向くよう仕向けます。
この時代のドラマに、「大方養和殿 *4 の仕業だろう。」なんてセリフが出てきます。
*4 住居の養和堂からくる仁嬪を指す符丁。
 
1592年、「文禄・慶長の役」が勃発。
豊臣軍の急速な侵攻に怯えた宣祖が都を逃げ出す際、仁嬪はライバルの側室「恭嬪 金氏(こんびん きむし 既に逝去)」の子、光海君がなるべく危険な目に遭うよう画策します。
光海君がいなくなれば、我が子が「世子(王位継承権1位)」になれるという狙い。
 
時代劇では、仁嬪が如何に光海君を窮地に追い込むかが大きな見せ場です。
「ホジュン」、「王の女」、「火の女神ジョンイ」、「王の顔」、「華政」などに登場します。
 
裏手から見る養和殿。大棟の軒がシャープな印象。陰謀の館に相応しい?
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翌1593年、文禄・慶長の役の第一次侵攻が終わり、宣祖一行は都に帰還します。
ところがかつての王宮はことごとく灰燼と化し、住むところさえありません。
 
都の西端にある王族 *5 の邸宅を接収、「貞陵洞行宮(じょんるんどんへんぐん)」とし、ようやく落ち着きます。(行宮=王の一時的滞在所、臨時王宮)
*5 第9代王「成宗(そんじょん)」の実兄、「月山大君(うぉるさんてぐん)」。
「チャングム」11代王、中宗の伯父。 宣祖から見ると曾祖父の兄、大々伯父?

月山大君の時代も色々とあります。ドラマとしては「王と妃」、「インス大妃」の頃。
架空の時代劇、「太陽を抱く月」が、月山大君の時代を下敷きににしているとも云われています。
 
貞陵洞行宮は、現在のソウル市庁前の「徳寿宮(とくすぐん)」。
徳寿宮は1904年の大火でほとんどの建物が消失。現在の建物は1906年頃に再建されたもの。
 
宣祖は行宮に落ち着いたものの、政事には興味を失ってしまったようです。
 
1598年の休戦までは文禄・慶長の役は継続中だし、その後は戦後復興もしなくちゃいけないのに…
 
なのに、こちらの「昔御堂(そごだん)」に引きこもり状態。
(撮影月 10月)
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当時は郊外だったこの地に何となく役人が集まりますが、ここを新たな王宮として再出発するでもなく、あくまで臨時扱いのまま、王宮の復興計画も不明のまま。
 
そんなやる気の無さを端的に表すのが、居所としたこの建物の名前。
 
通常は王自身が「○○殿」とか命名し、扁額を揮毫したりして「予の場所」を主張するものですが、「昔御堂」って「昔の御座所」という明らかに後世の命名(しかもやる気があまり感じられない)。
 
ところが政事にはやる気が無くとも、別の方面 *6 はやる気に満ちていたようです。
*6 宣祖の子は在位41年の間に王女11人、王子14人、計25人
誕生期間を分けると、戦前25年間=13人、戦時中6年間=5人、戦後10年間=7人
戦前の2年にひとりを微妙にペースアップ。しかも、晩年の46から56歳の10年間(実質は8年)。
 
更に、生涯に渡って冷遇し続けた正室「懿仁王后(うぃいんわんふ)」が1600年に薨御すると、2年後の1602年には継妃「仁穆王后(いんもくわんふ)」を迎え入れ、1606年には宣祖唯一の嫡男「永昌大君(よんちゃんてぐん)」が誕生。
 
この(やや節操の無い)子沢山が、後の政争の種となります。
 
宣祖は戻るべき正宮の無いまま、1608年、昔御堂で薨御します。
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だから、あらかじめ格好良い名前を付けておけと。
 
そして巻き起こる熾烈な跡目争い。
 
薨御の2年前に生まれた唯一の嫡男「永昌大君」は、まだ2歳。
王統としては魅力的でも、お飾り王としても幼な過ぎる。
(ちなみに歴代最年少は24代王「憲宗(ほんじょん)」。7歳で即位)
 
こうして、諸派入り乱れての権力闘争 *7 が始まります。
*7  嫡男「永昌大君2歳」派、庶長男「臨海君(いむへぐん)36歳」派、庶二男「光海君33歳」派、仁嬪の子庶六男「定遠君(ちょんうぉんぐん)28歳」派など。
 
宣祖晩年に誕生した嫡男、永昌大君の存在により混乱の度を一層増しました。
 
まあ、結果は既に書いた通り、光海君が15代王に就きます。
 
宣祖が放り出した戦後復興を如何に進めるべきかという課題がのしかかる中、継母にあたる仁嬪や仁穆王后のいじめに耐え、やる気のない父の肩代わりをしてきた実務手腕が買われた形です。
 
15代王、光海君は行宮の「即祚堂(ちゅくちょだん)」で即位します。
「即祚堂」という名前、「祚=君主が即(位)した所」?これもきっと後付けですね。
(撮影月 10月)
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この時任命権を持つのは、宣祖の晩年、8年前にその座に就いた仁穆王后。
嫡男の我が子を差し置いての光海君の即位。果たしてその心中や如何に…
 
まあ様々な確執はあれど光海君が王位に就き、1911年に行宮を「慶運宮」(仮王宮)に昇格、本格的な戦後復興が始まります。
 
そして冒頭にもある通り正宮の「昌徳宮」、東の離宮の「昌慶宮」の再建に着手。
1615年頃から順次入居開始となります。
 
 
ああ、ようやく舞台を昌慶宮に戻す事が出来ました。
 
昌慶宮と昌徳宮の間を行き来する通路。門の向こうが昌徳宮です。
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端折りたいのはやまやまですが、王宮の復興がひと段落すると、再び始まるのはやっぱり権力争い。
 
元々権力基盤の弱い15代王、光海君は、親族の暴虐 *8 を理由とするクーデタにより廃位されてしまいます。
*8 実兄・臨海君、先王嫡男(異母弟)永昌大君とその親族を謀反の疑いにより流刑、謀殺
謀反の同族として永昌大君の実母、先王継妃(継母)の仁穆大妃を廃位し、慶運宮に幽閉など
 
1623年、このクーデタで王位に就くのが、16代王「仁祖(いんじょ)」。
かつて光海君をいじめた宣祖の側室、仁嬪金氏の孫。光海君から見ると異母甥。
 
この時、仁嬪金氏は既に逝去していますが、我が子を王にという願いが形を変えてようやく叶いました。
 
 
仁祖が即位するのは、慶運宮の即祚堂(左)。
右には宣祖が薨御した昔御堂。
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クーデタの名目が「仁穆大妃の正統性(無実)の立証-救出」にある以上、否定すべき光海君の昌徳宮や昌慶宮を、仁祖の即位に使う訳にはいきません。
仁祖の即位は、かつての行宮で大妃の居所、慶運宮が最も相応しいのでした。
 
15年前、昔御堂で宣祖が薨御し、即祚堂で光海君が即位。
同じ即祚堂で今度は仁祖が即位し、その中心に行宮の主「仁穆大妃(王后)」再び。
時間を15年分巻き戻した事を、図らずも示しています。
 
しかも、宣祖晩年の8年間に登場した仁穆王后と永昌大君が、最大の変数になろうとは。(後から見ると、本当に迷惑な子沢山です)
 
歴史の皮肉を、ちょっぴり感じます。
朝鮮王朝史上、廃位された王は光海君が二人目。
一人目は10代王「燕山君(よんさんぐん)」。慶運宮(後の徳寿宮)の元々の主、月山大君の甥。
11代王「チャングム」中宗が燕山君を追い落としました。中宗は燕山君の異母弟。
 
この時、月山大君自身は既に卒去、中宗のクーデタには直接関与していませんが、月山大君に近い人物の多くがクーデタに関わっています。ここでも歴史の皮肉を感じます。

また、王の名前「○宗」、「○祖」は、薨御後に先祖となった先達を区別するための「廟名」。
廃位され、先祖の列に並べない燕山君と光海君には廟名が無く、即位時の名前のままなのです。
雨に煙る昌慶宮の明政殿。実は王様になってからの方が余程大変。
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16代王、仁祖は王位に就いてからはっきり言って散々な目に遭います。
 
当時の大陸では「明」の力が弱まり、北方の新興勢力「後金」が台頭中。
仁祖を担いだ勢力は明寄りで、光海君時代の明と後金との等距離外交が気に入りませんでした。なので仁祖の施策は当然、明寄りに戻ります。
 
ところが文禄・慶長の役に参戦した事も一因となり、明の力は衰える一方。
 
1627年、仁祖は後金の侵攻を受けますが、何とか和解が成立(丁卯の役)。
 
ここで路線転換が出来れば良かったのに、後金にパイプを持つ勢力はクーデタにより粛清済み。事態を打開出来る人材が殆どいません。
 
後金はこの頃「清」へとバージョンアップ。勢いを更に増します。
 
1636年暮、清の本格的な侵攻が始まり、現在の中朝国境付近から僅か6日で都に侵入(丙子の役)。これって300年後の朝鮮戦争(38度線から4日)よりも速いような…
 
慌てふためく仁祖は、祖父、宣祖に倣ったのか都を脱出します。
ちなみに仁祖は1595年生れ。文禄・慶長の役の際の逃避行は経験していません。
しかし、あの時の祖父、宣祖40歳。今、逃げ出す仁祖、41歳。ああ、因果は巡る。
 
その後仁祖は籠城の末、清軍に完全敗北。
莫大な戦時賠償を支払わされた上、清の冊封体制に完全に組み込まれ、以後属国としての扱いを受ける事になってしまいます。
 
この体制が、1895年までこの地を縛る事に事になろうとは。
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完全な敗北に打ちのめされ、傷心の仁祖は「もう王様なんて嫌…」と思ったのか、
昌慶宮の養和堂に引きこもってしまいます。
 
上の記述で「養和堂は丙子の役で焼失していない」と思う訳は、傷心の仁祖がわざわざ養和堂を再建し、それから引きこもったとは思えないからです。
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養和堂といえば仁祖の祖母、仁嬪金氏が暮らしていたところ。
「懐かしいお祖母ちゃんの家」って、それは憎き光海君の再建ではと思ったら、仁祖即位の翌年、1524年に起きた「李适(いぐぁる)の乱」*9で既に焼失。
自分の手で再々建していたのでした。
*9 仁祖のクーデタにおける論功行賞に不満を持つ勢力が、宣祖の庶十男「興安君(ふんあんぐん)」を立てた再クーデタ未遂。宣祖の子沢山はこんなところにまで影響を及ぼしました。
 
この時も仁祖は都を脱出しています。丙子の役の前哨戦、丁卯の役の際にも都を脱出。
都落ち三度はおそらく史上最多。この点では祖父、宣祖を完全に超えました。
自分達のクーデタ、翌年の李适の乱、丁卯の役、そして最終的な丙子の役。
14年間で4度の武力衝突のツケを支払う事になってしまった仁祖。
 
ああ、王様って楽じゃない…
 
 
悪い事ばかりではやっていられません。
 
1645年、明政殿で仁祖の二男「鳳林大君(ぽんりむてぐん)」が、「世子(せじゃ=王位継承第一位)」に冊封(認定)されます。
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え、何故に二男。長男は何処に行った。
 
1637年の敗戦の際、長男の「昭顕世子(そひょんせじゃ)」と二男の鳳林大君は、人質として清に連行されてしまいます。
あ、長男は既に「世子」になっている(仁祖が王位に就き、すぐ認定)。
 
1645年、ふたりの王子とその家族はようやく帰還を果たすのですが、昭顕世子が帰還直後に突然薨去。
昭顕世子には既に子供がいたので、通常は子が「世孫(せそん)」として代襲する筈なのに、何故か二男に継承権が回ります。
 
実は昭顕世子、清に人質となっていた8年間で外に目を見開かれたのか、柔軟思考で改革派となって戻って来たのです。しかも、清に友好的なようにも見えます。
 
これは仁祖の取り巻き達にとっては堪りません。
元々が「親明・排金(清)」を理由に先代王(光海君)を追い落とし、その見通しの甘さが、清の属国化を招いた事実を只今必至で隠蔽中。
しかも改革は清との関係改善に繋がりかねず、親明派の存続が危うくなります。
 
その辺を王になって突かれたら、取り巻き達にはたまったものではありません。
都合の悪い人物は… えいっ!一気に消しちゃいましょう(という説が最有力)。
 
「昭顕世子は病死ではない。調査を!」と声を上げた人たち(世子嬪=妻を含む)には、「あ、謀反、謀反だぁ~」と応酬し、謀反は自動的に処刑。
当時の罪は一家全員なので昭顕世子の子は皆、島流し…
 
配流された昭顕世子の子を何とか救出しようとする過程が、ドラマ「推奴(ちゅの)」で(多分にファンタジー色が強く)描かれます。
 
こんな様子を間近に見ていた鳳林大君は、父仁祖を含め、周囲に疑惑を抱かせるような事を一切せず、世子に無事任命されたのでした。
そして鳳林大君は仁祖の跡を継ぎ、17代王、孝宗(ひょじょん 在1649-59年)になります。
 
さすが、下の子は振る舞い方にそつがない。
 
暗闘の歴史はまだまだ続きそうです。
 
 
記述はなるべく正確にと心がけたつもりですが、あくまでも時代劇を面白がる視点なので、確実なものではありません。そのあたりどうかご容赦くださいませ。
 
力尽きたので、とりあえず今回はここまで。
(冬休みの宿題、前編終了)
 
え、後編につづくのか?