昌慶宮 (ちゃんぎょんぐん)に出かけたところ、時代劇ネタに嵌り込み、無駄に話が長くなっています。
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昌慶宮は幾度も災難に遭い、現存する建物は1833年頃再建された4代目が殆どです。
でもまあそのあたりは、時代劇ネタという事であまり気にしません(^^ゞ

 
 
 
王后 (わんふ)や大妃 (てび=王の母)が主に暮らした「通明殿 (とんみょんじょん)」。
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通明殿は「何かが出る」としょっちゅう噂になる場所でもありました。
 
「馬医」18代王「顕宗 (ひょんじょん)」の強気な母「仁宣大妃 (いんそんてび)」でさえ、「見てしまった時」震え上がって逃げ出したと伝えられています。
 
まあ、ここで暮らした人たちの顔ぶれを見たら、何かが出ても当たり前。
出ない方がおかしいというくらいに、もう時代劇の常連が勢ぞろい。
 
 
通明殿の内部。奥の黄色の床の部屋には床暖房、オンドルが入っています。
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まずは大物、「トンイ」19代王「粛宗 (すくちょん)」の曾祖母にあたる「荘烈大王大妃 (ちゃんにょるてわんてび)」が晩年をここで過ごしています。
 
 
ちょっと横道。粛宗の曾祖母って一体…
荘烈大王大妃は、前回登場の「花たちの戦い」16代王「仁祖 (いんじょ)」の二人目の正室。仁祖43歳の時に14歳で嫁ぎ、年齢差は29歳。間に子は無し。
 
曾祖母にあたるとはいえ、粛宗の即位時にはまだ50歳。長老として影響力を発揮しそうです。
 
実際に、孫嫁-粛宗の母「明聖大妃 (みょんそんてび)」に対抗し、「張禧嬪 (ちゃんひびん)」 *1 の初期の後ろ盾になっています。(「トンイ」では登場が無かったような…)
 
*1 「禧嬪 張氏 (ひびん ちゃんし)」か、実名の「張玉貞 (ちゃんおくちょん)」と表記する方が正しいのですが、ドラマネタなので、俗称の「張禧嬪 (ちゃんひびん)」で通します。
 
あ、「張禧嬪もの」って、大姑「南人」対孫嫁「西人」の代理戦争だったのか。
 
 
 
ここ迄書いてきて今更気付いた事。
「馬医」では可愛いお嫁さんの明聖王后  「トンイ」序盤の強烈な明聖大妃
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同一人物だったのかあ。
 
余談ですが、世子嬪から王后となり、大妃の座に就いたのは王朝史上、明聖王后(大妃)ただひとり。
また、側室を持たなかったのも夫である「馬医」18代王、顕宗ただひとり。
純愛と見るか、それ程に強かったと見るかは、受け手次第でしょうか(^^ゞ
 
 
 
 
通明殿は大棟に重そうな軒が無く、優美な印象です。
外観の優美さとは裏腹に、陰謀渦巻く大物リストはまだ続きます。
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粛宗の時代、「張禧嬪もの」ドラマでは大抵カットの憂き目に遭う、影薄い粛宗の最初の王妃「仁敬王后 (いんぎょんわんふ)」。10歳で嫁ぎ、19歳で薨御しています。
 
 
なので当然、張禧嬪のライバル、正室の座を一旦追われるも返り咲く、粛宗の二人目の王妃「仁顕王后 (いにょんわんふ)」も、晩年をここで過ごしています。
 
 
「トンイ」の終盤、トンイの子「延礽君 (よにんぐん)=後の21代王『英祖 (よんじょ)』」が、張禧嬪派の仕掛けた呪いの品を発見したり…
仁顕王后が、駆け付けたトンイに未来を託すのはここだったのかと、空想に浸ります。(史実とフィクションない交ぜ(^^ゞ
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あ、張禧嬪(上記 *1 参照)についての説明をすっかり忘れておりました。
 
彼女は朝鮮王朝三大悪女のひとりなんて言われてまして、粛宗の時代に、一介の女官(上述の荘烈大王大妃付き)から粛宗の側室となり、やがて仁顕王后を追い落とし、正室となります。庶民出身で王后となったのは、王朝史上彼女だけ。
 
しかしその後、仁顕王后派の反撃に遭い降格。仁顕王后が正室に復帰します。
1701年、仁顕王后を呪殺したとされ、処刑。
けれども粛宗との子「景宗 (きょんじょん)」が、1720年に20代王として即位します。
 
 
お話はそれでは終わらず、景宗は在位僅か4年で薨御。
死因について諸説あり、次の21代王、英祖から22代王「正祖 (ちょんじょ)」、すなわち「イサン」の時代にまで陰を落とします。
 
このあまりに波乱万丈な一生ぶりから、張禧嬪は映画化が2回、ドラマ化が8回(スピンオフ「イニョン王妃の男」含む)と、時代劇には欠かせない存在です。
 
 
 
 
 
通明殿の天井は彩色の施された豪華版。暗闘の歴史を見ていたのでしょうか。
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そういえば、前回登場の14代王「宣祖 (そんじょ)」の後ろ盾となる、「女人天下」13代王「明宗 (みょんじょん)」の王妃「仁順王后 (いんすんわんふ)」もここで暮らしました。
 
 
 
 
王朝時代には、どの御殿を取るかが影響力と繋がっていたようで、通明殿は王后、大妃にとり、特別な場所だったようです。
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こんな調子で王朝絵巻を繰り広げていたら、いつまでたっても終わりません。
なのでとっとと先に進みましょう。
 
 
 
 
 
「文政殿 (むんじょんじょん)」は、昌慶宮の「便殿 (ぴょんじょん=執務室)」。
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現在の建物は1986年の再建建築ですが、文政殿では1762年、王朝史上最も悲劇的と云われる事件が起きました。
 
21代王、英祖が将来を嘱望し、一時期は摂政も務めた英祖の実子「思悼世子 (さどせじゃ) 後に[荘献世子 (ちゃんほんせじゃ)]」を、処罰のため米櫃に閉じ込め、おそらく脱水症状により死亡させた事件(壬午士禍)です。
 
 
 
その米櫃が置かれたのが、まさしくこの前庭と云われています。
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何故そのような事件が起きたのかには諸説ありますが、大きく影響したのが当時の熾烈な派閥争いでした。
 
 
 
発端となるのが、1759年、昌慶宮の正殿(法殿)「明政殿 (みょんじょんじょん)」で行われた、英祖の二人目の正室「貞純王后 (ちょんすんわんふ)」との婚姻でした。
 
この時英祖66歳、貞純王后は何と14歳。祖父と孫といっても通りそうな年齢差ですが(英祖の子、思悼世子より10歳も若い)、実際には派閥が影響力を行使するための楔といった婚姻でした。(英祖と貞純王后との間には子がありません)
 
 
明政殿は、陰謀渦巻く割に災難に遭う回数が少なく、築400年。
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貞純王后を正室に送り込んだ派閥(老論派 [のろんぱ])は、英祖の王女、思悼世子の妹「和緩翁主(ふぁわんおんじゅ)」をも取り込み、対立する派閥(少論派 [そろんぱ])を後ろ盾とする思悼世子との対立を一層深めます。
 
 
こうした度重なる圧力に対し、思悼世子は次第に焦燥を深め、暴発してしまいます。
英祖は事態打開のため、思悼世子を処断する必要に迫られます。
 
 
実子を切り捨ててまで事態を打開するのには、英祖の抱える弱みがありました。
 
 
英祖の父は19代王、粛宗ですが、母は側室の「淑嬪 崔氏 (すくぴん ちぇし)」(ドラマ「トンイ」のモデル)。元の地位が低いと云われ、後ろ盾となり得ませんでした。
 
また、粛宗の後を継いだ張禧嬪の子、20代王「景宗 (きょんじょん)」は在位僅か4年で薨御。後を継いだ英祖には「景宗を謀殺した」との疑いが付いて回ります。
 
 
こうした弱みを発火させぬため、英祖にはどうしても派閥の助けが必要でした。
その派閥が貞純王后を送り込み、和緩翁主を取り込みます。
 
この辺りはドラマ「秘密の扉」でしたっけ。
 
 
 
文政殿の玉座に座し、我が子を死に至らしめた英祖の胸に去来するものは、一体何だったのでしょうか。
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英祖晩年の肖像。
在位期間が52年と王朝史上最長。その分苦悩も最多だったのかもしれません。
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またまた余談ですが、この肖像画の製作には同時代の天才画家、ドラマ「風の絵師」に登場する「金弘道 (きむほんど)」が加わっていると云われていますが、「イサン」ではキャラクタが被るためか出番がありませんでした。
 
 
 
前々回の記事に登場した正祖の水原巡幸図は、金弘道の作とされているのに。
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そういえば、同時代のもうひとりの天才画家「申潤福 (しんゆんぼく)も「イサン」ではカットされていました。「風の絵師」では主役だったのに。
 
更に「イサン」では、武官「白東脩 (ぺくとんす)」もキャラが被るためか、完全にカメオ扱いでした。「ペク・ドンス」というスピンオフドラマもある位なのに。
 
ちょっと横道にそれ過ぎました。
 
 
 
 
 
米櫃でその生涯を終える事になった思悼世子は、槐 (えんじゅ)の木の横で「禁川 (くむちょん=王宮の内外を分ける掘)」を渡り、
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昌慶宮南東の「宣仁門 (そんにんむん)」から運び出されたと云われています。
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10歳でその様子を目の当たりにし、心を痛めたであろう、思悼世子の子が「イサン」こと、後の22代王、正祖。
 
 
 
 
1752年、正祖が生まれた「景春殿 (きょんちゅんじょん)」。
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熾烈な派閥争いの渦中を生きざるを得なかった正祖は、生涯暗殺の危険を感じていたとされ、そのせいか相当な変人だったと云われています。
 
 
 
そんな正祖が多くの時間を過ごし、1800年に薨御したのが「迎春軒 (よんちゅんこん)」。王の居所とはとても思えない質素さです。
 
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側室の居所並みの迎春軒を好んだのは、警備のしやすさからとも云われますが、公式の場以外ではおよそ王らしからぬ地味な服装をし、食事も庶民のように質素なものを好んだと云われる、正祖の意識の表れかと思えます。
 
 
迎春軒には上がれなかったので、同等の建物の内部からの眺め。
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陰謀に取り巻かれた人生を送るしかなかった正祖は、この空間で何を思ったのでしょうか。
 
 
正祖は48歳の若さで薨御したため、今に至るまで謀殺説が取り沙汰されますが、絶えず受け続けたストレスと過労による早世だったようです。
 
 
 
 
正祖が暮らした迎春軒(奥)の隣に建つ「集福軒 (じっぼっこん)」。
ここでは正祖の父、悲運の王子、思悼世子が生まれました。
 
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元々は少し離れた位置関係でしたが、再建を重ねるうちに現在の形になりました。
上の画像の建物内部はこの集福軒です。
 
正祖は、自分に馴染みのあるところから離れたくなかったのかもしれません。
 
 
迎春軒と集福軒の裏手の石段を上がった小高い丘の上には、
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正祖が王となった時、母の「恵慶宮 洪氏 (へぎょんぐん ほんし)」のために建てた「慈恵殿 (じゃぎょんじょん)」がありましたが、今ではすっかり緑に覆われています。
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正祖は弓を好んだと云われ (実用性はあったのでしょうか)、昌慶宮の北東の丘には、「観徳亭 (くぁんどっちょん)」と名付けられた射場の建物が残ります。
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ついつい、ドラマ「イサン」を連想してしまう、昌慶宮です。
 
 
貞純王后を頂点とする派閥-氏族(安東金氏)は、最大の対抗勢力であった正祖が薨御すると、正祖による改革を殆ど覆し、自派を利する体制(勢道政治)を築きあげ、王朝末期に至るまで思うがままに権勢をふるいます。
 
特定の派閥-氏族による政治の私物化が改革の阻止と停滞をもたらし、この地の近代化の歩みを止めてしまった事を思うと、何とも複雑な気持ちになります。
まあ、それはまた別のお話ですが。
 
 
 
 
 
昌慶宮は1907年頃から公園として整備されたため、王宮時代とは大きく姿を変えています。
 
 
「春塘池 (ちゅんだんじ)」は、元の小さな池を公園造成時に大きく広げました。
かつては王宮直轄の農園でした。農園と聞くと「チャングム」が出入りしそうです。
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同じく公園造成時に建てられた「大温室 (ておんしる)」。1909年の竣工。
 
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基本設計を担当したのは、福羽逸人 (ふくばはやと)。
小豆島のオリーブ栽培や、日本でのイチゴ栽培の先駆けとなった農学者です。
新宿御苑の初代温室(1892年建築 その後戦災で焼失)も福羽が手掛けました。昔の写真を見ると、この温室とよく似ていたようです。
 
 
 
施工したのはフランスの会社。
ガラスと鉄骨、木材を組み合わせた20世紀初頭っぽい繊細さが目を引きます。
 
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現在は補修工事が行われていて、内部に立ち入る事は出来ませんでした。
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温室の正面は、噴水塔を中心とした左右対称なフランス式庭園。
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王宮に突如出現した近代(あ、当時は現代か)をどう捉えるかは様々ですが、世紀をまたぎ、この温室が今も此処に建つ事には確実に意味があると思います。
 
同時代の新宿御苑の温室が戦災で焼失し、昌慶宮の温室が戦災を免れたという運命までは深読みしないとしても…
 
 
 
 
昌慶宮の南東側には王宮に関わる官庁が集まっていましたが、公園整備の際に撤去され、動物園になりました。(役人と動物、共通するのは「どちらもよく吠える」?)
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役所の中にはドラマ「馬医」の中で、18代王、顕宗の妹「淑徽公主 (すっきこんじゅ)」が主人公に逢いたくて足繁く通う、王宮の動物を管理する「司僕寺 (さぼくし)」もありました。なのでここが動物園となったのには、ある種の必然があったりして。
 
 
 
緑地の中に残る石段は、「観天台 (くぁんちょんで)」の基礎部分。
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15世紀前半、4代王「世宗 (せじょん)」の時代、ドラマ「チャンヨンシル」に登場する科学者、「蒋英実 (ちゃんよんしる)」が、明から密かに持ち込んだ天体観測機器が据え付けらていました。
 
今でいう赤道儀のような「簡儀 (かに)」と呼ばれる機器で、天体の運行を観測する事で正確な時間(と日付)を把握しようとしたようです。
 
 
 
ドラマ「チャングム」の終盤、11代王「中宗 (ちゅんじょん)」がチャングムに官位を授ける事に猛反する官僚に対し、「世宗大王は功績を上げた奴婢(蒋英実)に官位を授けた。そなたらは、世宗大王が誤っているというのか」と一喝します。
 
蒋英実とチャングムが、こんなところでつながるとは。
 
 
 
 
 
 
昌慶宮の中で空想に耽っていると、ドラマの主人公がふと表れそうです。
 
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実際に出会った小さな公主や世子。
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古宮をうろうろしていると、こんな記念撮影をよく見かけます。
かつての公主や世子のように陰謀や暗闘に巻き込まれる事などなく、現代の公主や世子は素直に育って欲しいなと思います。
 
 
権力争いと陰謀の渦巻く王朝 (Dynasty) を巡っていたら、最後はついセンチメンタルになってしまいました。
 
取りあえず今回はここまでです。
 
 
 
記述はなるべく正確にと心がけたつもりですが、あくまでも時代劇を面白がる視点なので、確実なものではありません。そのあたりはどうかご容赦くださいませ。
 
あー、いやに長い冬休みの宿題になってしまいました(^^ゞ