「そのあまりにモニュメンタルな力業に、思わずくらくらっと」したその訳は…


1908年に「京城監獄」として開所し、「ソウル拘置所」として1987年まで使われてきた現「西大門刑務所歴史館」は、現在「西大門独立公園」内にあります。
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この建物群は移築ではなく、元々この場所に建てられました。


「歴史館」に展示されている配置図とジオラマを見ると、
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……青点線がいわゆる「塀の中」。塀の外の付帯施設を含めると、現在の「西大門独立公園」のほぼ全域が刑務所の敷地だったようです。
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まあそれは当然で、1987年に移転した「ソウル拘置所」の跡地を整備し、1992年に開園したのがこの公園なのです。




ただ、ここを訪れようとした時に混乱したのが、そのネーミング。
「西大門独立公園」なので、つい「西大門」を連想してしまいます。

1915年に道路と路面電車の拡張のため撤去され、現存しない「西大門(敦義門)」は、「西大門独立公園」から南東に約1,000m離れた赤丸の位置にありました。
……赤点線は、往時の城壁の目安です。
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ここが現在の「西大門区」である事以外に、「西大門(敦義門)」との繋がりはあまり感じられません。なので最寄り駅名でもある「独立門」にちなんだ、「独立門公園」とかのほうがずっと分かりやすいのに。



駅名となっている「独立門(とんにんむん)」は、1897年竣工の西洋風の石造門です。
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この門は、1985年の日清戦争の講和「下関条約」による、(李氏)朝鮮王朝の全期間に及んだ
明・清との冊封・朝貢体制からの独立を記念し、恒久的な「自主独立」への願いを込めて建てられました。

要するに清との従属関係から脱し、26代王高宗が「大韓帝国初代皇帝」に即位した事を記念し、それによる将来の発展を願ったものです。

うわあ、どちらも何ともややこしい…




いきなり余談ですが、韓国時代劇の中での王様の尊称は、古代から高麗中期までは「陛下(ぺは)」、明・清冊封下の高麗後期から朝鮮王朝では「殿下(ちょな)」を用いるのがお約束です。冊封体制により、尊称が一段階下がる訳です。
(最上位の尊称「陛下」は宗主国の王=皇帝に用いられるため)

それに合わせ、王位継承権第一位の呼称も「太子(てじゃ)」⇒「世子(せじゃ)」に変わり、尊称も「殿下(ちょな)」⇒「邸下(ちょは)」に下がります。
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「独立門」は、約500年間「主上殿下(ちゅさんちょな)」だった王様を、晴れて「皇帝陛下(ふぁんじぇぺは)」と呼べるようになった事の記念でもあるわけです。




そんな歴史を背負っているにしては、何とはなし影が薄い。
建つ場所も城郭の外側、市街の西隅だし、門だけがぽつんと「独立」しています。
「独立」ってそういう意味では無いでしょうに。
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更に、1979年には道路拡張により、本来の位置(多分赤丸のあたり)から70m程移動させられています。
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しかも、この移動の際だと思われるのですが、本来の位置関係を無視してコンパクトにまとめてしてしまったようなのです。


横からの写真を撮り忘れてしまいましたが、今は石柱と門が殆ど隣接しています。
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手前の石柱は、1536年に原型が建てられたと云われる「迎恩門(よんうんむん)」の礎石というか支柱部分です。


「迎恩門」は他の王宮の門とは異なり、門扉が無く、左右の門柱の上に屋根を載せた、中華街の入口などに見られる大陸風の門(牌坊?)でした。
この門は、明・清からの冊封使節を迎える門なので、装いが大陸風なのでした。
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(ウィキペディアから画像をお借りしました)


創建当時の様子。左に写る「迎恩門」の石柱と、奥の建物との関係性があってこその「独立門」なのですが…
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(ウィキペディアから画像をお借りしました)

奥に写る建物は、冊封使節一行が滞在した「慕華館(もふぁぐぁん)」。



またまた余談ですが、「慕華館」も、韓国時代劇によく登場します。
「トンイ」の前半、監察府のトンイが密貿易の証拠を掴もうと潜入したり、「馬医」の中盤、清から戻ったクァンヒョンが颯爽と登場して見せたり、「イサン」の終盤で正祖と清の使節団が一触即発の危機に陥ったり…。

時代劇の中でも、明・清との関係性は常にアタマの痛いポイントです。
そんなアタマの痛い冊封体制から脱したのは、とても大きな転換点でした。



冊封体制の終了により役割を終えた「慕華館」は「独立館」と名を変え、社会の近代化を目指す啓蒙団体、「独立協会」の本拠地となります。


この「独立協会」が募金を集め、「迎恩門」の隣に建てたのが「独立門」なのです。

「慕華館」⇒「独立館」、「迎恩門」⇒「独立門」という象徴的な構図により、冊封体制からの脱却と社会の近代化、「自主独立」のシンボルを目指したのです。
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「独立協会」は「独立新聞」の発行など活発な活動を続けていましたが、政治路線の対立から皇帝(とその側近)に次第に疎まれ、「独立門」完成の1年後、1898年に勅令により解散させられてしまいます。その活動期間はわずか2年でした。
この路線対立が、後の日露戦争の火種となってゆきます。

そんな由来により、「独立門」は完成直後からちょっとした困ったちゃん扱いとなってしまったようなのです。
戦前の絵葉書などでも、これらの建築の周囲には細かい民家が建ち並び、あまり特別扱いをされていない印象です。


「独立館」も、1909年に京城中学校が仮校舎として、当時の所有者「一進会」から借り受けて以降は表舞台に立つ事も無く、いつの間にか消えてしまいました*1。

*1 現地の説明文には、こうした場合の必殺技「日帝により~」が使われていますが、1年間とはいえ、学校として使用した建物を撤去する意味は殆ど無いように思います。更に言えば「一進会」は「親日」的組織でした。
また、1946年頃の地図にそれらしき記載がある事から、実際には朝鮮戦争により破壊された可能性が高いように思えます。「迎恩門」の支柱には弾痕と思しき跡も残っています。




現在の「独立館」は、1996年に公園整備の一環として建てられたもので、位置関係などは特に考慮されなかったようです。
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赤矢印は「独立門」の移動(約70m)、青矢印は「独立館」の移動(約350m)を示しています(どちらも推定位置)。






あくまでも個人的妄想ですが、「独立門」の奥に刑務所が建てられたのは、どちらもひっそりとしていて欲しかったからでは? なんて思ってしまいます。
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まあ本当は、たまたまそうなった、なのでしょうか。


あえて理由付けをするとしたら、西大門から南大門にかけての城壁を撤去し、ソウル(京城)市街を西に拡張する計画の一番端がここだったという点でしょうか。

青丸が撤去された「西大門(敦義門)」(上)と「南西門(昭徳門)」。
赤丸が現存(復元含)する門。 ……赤点線が現存(復元含)する城壁です。
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地図上に記載がありませんが、南端のNソウルタワーのところには「南山(262m)」、
「東大門(興仁之門)」と「北東門(恵化門)」の間には「駱山(125m)」があります。
四方を山々に囲まれているので、城壁を開いて市街を拡張出来るポイントは、どうしても限られます。




時は流れ、刑務所は廃止され、跡地は公園に生まれ変わります。

そして「独立門」に新たな意味合いが加わります。 門の向こうには…
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大きな記念碑が建っています。「3・1独立運動記念塔」です。
1919年3月1日に、宗教指導者33名による「独立宣言書読み上げ」に端を発し、その後大規模な示威運動に発展しました。3月1日は、韓国の祝日となっています。
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この記念塔は、1963年に運動発祥の地とされるソウル中心部に近い「タプコル公園」に建てられましたが、1979年にそこから撤去されました。


1992年の公園整備に合わせ、「独立門」を見通す位置に再建されました。
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元々の意味合いが異なる、「独立」に関するふたつのモニュメントを直線上に並べてひとつの視野に入れてしまう力業には、もう脱帽というか脱力というか…




更にその奥には、真打ともいえる「本物の刑務所」が控え、「苦難の道程」を証言するという力の入り方です。
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「西大門刑務所歴史館」について詳しくは、前回の記事を参照して頂くとして、

ここにも、とても積極的な動きがあるようです。



例えばこの建物、1918年頃に建てられ、1979年に撤去されたという「女子獄舎」の復元建築です。
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「3・1独立運動」に参加した女性運動家が投獄された場所とされています。
ところが、この建物の復元に至る年表がちょっと不思議なのです。

1918年頃、原型の建物が完成。
1919年、「3・1独立運動」の女性運動家が「地下牢」に収監。
1934年頃、「地下牢」が埋め立てられる。
1936年、「設計図面」が描かれる。

1979年、建物が撤去される。
1987年、「ソウル拘置所」閉所。
1990年(92年とも)、地下牢が「発掘」される。
1998年、「地下牢」が一般公開される。
2009年、1936年の設計図面が「発見」される。
2011年、1936年の図面を基に、現在の建物が復元される。


1918年に建てられた建物を1934年頃に解体し、1936年に改築したというのが妥当な解釈でしょうか。(築16年で解体という謎は残りますが)
もしかして、1936年以前はフィク… まさかね(^^ゞ

開館当初は、「1990年に発掘された地下牢」のみを公開していたようですが、「女性運動家が収監された」事を伝えるのならばそのままの方が良く、2代目と思われる上物を建ててしまったら、その意味あいが却って薄らいでしまう気がします。
また、2代目の図面を基にしたのなら、説明文に「1918年設置」と書いてしまうのはいささか行き過ぎだと思います。




復元は、まだまだ続くようです。
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どうやらこれは、「女子獄舎付属倉庫」の復元工事のようです。
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果たして完成形は、どのような「カタチ」となってゆくのでしょうか。

またしても疑問がわいてしまいます。
そもそも1987年の「ソウル拘置所」閉所時に半数以上の建物を撤去し、わざわざ復元建築を建て直すって、何とも二度手間です。
解体された建物には忘れてしまいたいものが… なんてつい妄想してしまいます。



年号を出そうとすると、とっても疲れます。
なので最後にもうひとつだけ。

「ソウル拘置所」の「女子獄舎の撤去」が1979年。
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1979年といえば、1961年にクーデタにより権力を掌握した、実質上の終身大統領が暗殺され、図らずもその任期を終えた年でした。
事件直後から、「ソウルの春」と呼ばれた民主化への期待の高まりがありました。
何とも象徴的な年に撤去されたものです。

更には、上でだらだらと書き連ねた「独立門の移転」、「タプコル公園の『3・1独立運動記念塔』の撤去」も、何故か同じ1979年の事でした。
まあ、何でもかんでも関連付けられるものではありませんが。


その後の「ソウルの春」は、軍の後継者が次第に権力を握り、非常戒厳令が全国に拡大された事により、わずか7か月で終息してしまいます。


本格的な民主化の到来は、ソウルオリンピックを間近に控え、「民主化宣言」が出される1987年を待たねばなりませんでした。

この年に「ソウル拘置所」がその役目を終えます。こちらも、何とも象徴的な年に閉所したものです。
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ほんの蛇足。
この公園の名前に「西大門」が入っているのは、例えば「東京拘置所」の事をこっそり「小菅」と呼ぶように、「ソウル刑務所-矯導所-拘置所」も「西大門」と密かに呼ばれていた事を暗示しているのかも? なんて空想してしまいました。



近現代史のおさらいと、推理・妄想を働かせるのには恰好な「西大門独立公園」なのでした。 でもちょっとアタマが疲れます(^^ゞ


とりあえずここまでです。



この項は、以下の論説が大変参考になりました。ありがとうございました。

「近代朝鮮におけるナショナリズムと「シンボル」の変遷に関する一考察 -独立協会の解散以後の独立門をめぐって-」 金容賛  立命館国際研究 29-1 2016年6月

「近代朝鮮におけるナショナリズムと「シンボル」の機能に関する一考察 -独立協会の活動と独立門をめぐって(1896-1899)-」 金容賛  立命館国際地域研究 第36号 2012年10月