鎌倉城(相模国・神奈川県鎌倉市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

おしろまなぶ の お城を学ぼう

訪問したお城について書いていきます。

今回は、現在の神奈川県鎌倉市にあった鎌倉城です。
鎌倉城って何?って感じだと思いますが、源頼朝が樹立した武家政権である鎌倉幕府の本拠地が置かれた場所をいいます。
詳しくは、ブログ内で少しずつ解説していけたらと思います。



鎌倉城跡は現在、鶴岡(つるがおか)八幡宮やその周辺にあたり、鎌倉駅から徒歩20分弱くらいで行くことができます。


鎌倉駅。
JR東日本の横須賀線(総武祖快速線、湘南新宿ライン直通含む)と江ノ島電鉄の江ノ島電鉄線が乗り入れています。
人口約17万人の鎌倉市の中心駅ですが、鎌倉市と横浜市にまたがって位置している大船駅の方が、利用者がかなり多いです。


若宮大路。
鶴岡八幡宮の二の鳥居が見えますが、道路の真ん中に参道があって、まるで中央分離帯のような感じになっています。


鎌倉日蓮堂。
中に日蓮上人の木像があります。

鎌倉城は、源氏と平氏が争った治承・寿永の乱(1180~1185年)頃に源頼朝が鎌倉に置いた本拠地を指すとされています。


日蓮上人辻説法跡。
1253年(建長5年)に安房国から鎌倉に渡ってきた日蓮上人が松葉ヶ谷(現在の長勝寺や安国論寺の辺り)に草庵を結び、毎日のように法華経の功徳を解く辻説法をおこなっていたとされている場所です。
1260年(文応元年)に5代執権・北条時頼に立正安国論を提出したことで、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちにあったといわれています。

立正安国論って何かと言いますと、要するに「邪教である浄土宗などを放置していると、災害や天変地異が起こり、国内では内乱が勃発し外国からは侵略されて国が亡びるから、法華経を信じなさい」って感じのことを説いたわけですね。
そりゃあそんなこと言いだしたら北条執権家に怒られますよ・・・。


妙隆寺の山門。
このお寺の周辺は、鎌倉幕府の有力御家人である千葉氏の屋敷跡とされていて、妙隆寺は1385年(元中2年・至徳2年)に千葉胤貞が日英上人を迎えて建立したといわれています。


妙隆寺の本堂。
日親上人は1440年(永享12年)に立正治国論を著して、室町幕府の6代将軍・足利義教に直訴を試みますが、弾圧されて数々の拷問を受けました。
日蓮上人と同じようなことして、同じように弾圧されてしまったのですね。


宇都(津)宮辻子幕府跡。
源頼朝の妻で尼将軍と呼ばれた北条政子が1225年(嘉禄元年)に死去すると、3代執権・北条泰時は幕府を大蔵から移し、翌1226年(嘉禄2年)には藤原頼経が4代将軍(摂家将軍)に任命されます。
現在は宇都宮稲荷神社となっていて、住宅街の一角にひっそりと佇んでいます。


若宮大路の風景。
とても左右に道路が走っているとは思えないくらい、和やかな雰囲気です。

源頼朝が鎌倉で武家政権を樹立した際の本拠地を鎌倉城と呼ぶのは、南には太平洋が広がり、他の三方は山に囲まれていることから一種の城塞として扱われているためです。
以後は、鎌倉武家政権の本拠地として用いられます。


若宮大路幕府跡。
北条泰時が1236年(嘉禎2年)に幕府を宇都宮辻子から若宮大路へと移してからは1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅亡するまでの間、若宮大路幕府が鎌倉幕府の政治の中心となりました。
住宅街の一角に、石碑だけが残されています。


鶴岡八幡宮の三の鳥居。
ここから先が、鶴岡八幡宮の境内ということになります。
1063年(康平6年)に源頼義が前九年の役の必勝を祈願して、京都の石清水八幡宮を源氏の氏神として勧請した、鶴岡若宮が始まりとされています。
鶴岡八幡宮の公式HPは↓↓
https://www.hachimangu.or.jp/


境内には池がいくつか見られますが、水堀に見えて仕方ありません。


舞殿(下拝殿)。
静御前が源義経を慕って舞ったとされている若宮社殿の回廊跡に建てられたものです。
参拝待ちの行列がすごいです。


本宮(上宮)。
1828年(文政11年)に徳川家斉が再建した建物で、国の重要文化財に指定されています。


巨福呂坂(こぶくろざか)切り通しを見に行く途中で、気になるトンネルがありましたが、何なのか分からず・・・。
「きけん この中に入ってはいけません。」の看板から、横須賀市上下水道局が管理しているようです。


巨福呂坂切り通し。
鎌倉七口と呼ばれる切り通しの1つで、鎌倉へ陸路で入るための入口となっています。
鎌倉は南を太平洋が、残りの三方を山が囲んでいるため、天然の要害となっています。
そのため、陸路でも鎌倉へ出入りしやすいようにと設けられたのが鎌倉七口となっています。
鎌倉が城と呼ばれる理由の1つには、こうした外部から侵入しにくい地形に由来していると考えられています。


畠山重忠邸跡。
鎌倉幕府の有力御家人の1人で、源頼朝の重臣の1人です。
頼朝没後に執権・北条時政の謀略により謀反の疑いを掛けられて討ち死に、一族も滅亡しました(畠山重忠の乱)。
畠山重忠の館跡があったといわれる場所ですが、実際はこの辺りには政所が置かれていたとされていて、畠山重忠邸は別な場所にあったようです。


大蔵幕府跡。
清泉小学校付近には、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に将軍の御所として用いられた大倉幕府跡の石碑があります。
1180年(治承4年)に源頼朝の邸宅として置かれ、1219年(承久元年)に3代将軍・源実朝が暗殺されるまで、または1225年(嘉禄元年)に宇都宮辻子に移されるまでの間、将軍の御所として用いられました。


清泉小学校。
カトリック系の共学の私立小学校です。
フェンスに小学生が手作りした解説などが貼られていて、よく調べてあるなーと読みながら通りました。
清泉小学校のHPは↓↓
https://seisen-e.ac.jp/


東門跡。
こちらも石碑のみが残されています。
奥に清泉小学校のプールが見えます。


法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)。
割と長めの階段を上ってきましたが、源頼朝の墓は隣にもう一本階段があって、そちらを上っていきます。

1333年(元弘3年)、新田義貞が挙兵し分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏を退けて鎌倉に攻め込みます。
稲村ヶ崎が干潮となったのを機に鎌倉に攻め入ると、北条氏の軍勢はなすすべなく敗れ、北条氏一門は東勝寺で自害し滅亡します。


法華堂跡(義時法華堂跡)。
礎石のあった場所に杭のようなものが打たれています。
鎌倉幕府2代執権・北条義時が亡くなった際に墳墓堂として建てられました。
北条義時は昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として有名になりましたね。


三浦やぐら。
1247年(宝治元年)の宝治合戦において、鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏が北条執権家に攻められ、源頼朝法華堂で三浦義村ら一族が自害したのを弔うために設けられました。


さらに上に階段が2つあり、これを上ると大江広元、毛利季光、島津忠久の3人の墓があります。
なかなか雰囲気のあるお墓でした。


源頼朝法華堂跡への入口。
麓に石碑があって、階段を上っていく形となっています。


白旗神社。
先程の石碑の辺りに鳥居があります。
白旗神社(白幡神社)の多くは源頼朝ゆかりの神社ということで、各地で多くの人々の崇敬を集めています。


なかなか急な階段を上っていきます。


史跡法華堂跡(源頼朝墓、北条義時墓)の標柱と案内板。
ここには源頼朝の法華堂跡があって、先程紹介した隣の階段を上ったところにあったのは北条義時の法華堂跡という認識であってますでしょうか??
間違ってたら誰か教えてください。


源頼朝の墓。
鎌倉が現在も観光地として栄えているのは、やはりこの地で武家政権を樹立し、幕府を開いた源頼朝の功績によるもでしょうし、しっかりと手を合わせてきました。


西門跡の石碑。
西門跡は、横浜国立大学教育学部附属鎌倉小・中学校の敷地にあるらしく、石碑は道路沿いに設置されています。
中を少し覗いても、どのあたりに西門があったのか分かりませんでした(汗)

今回、鎌倉幕府の面影を探すために出掛けて来たのですが、いままで知らなかったことも含め、非常にタメになったなと思いました。
結局、鎌倉幕府のあったところは城なのか、その結論は出ませんでしたが・・・。

では、この辺で。


おしろまなぶ。