八幡山城(近江国・滋賀県近江八幡市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

あっという間に2月になってしまいましたね(汗)
私は確定申告も終え、あとは還付される税金の振り込みを待つばかりとなりました。

さて今回は、現在の滋賀県近江八幡市にあった城で、続日本100名城の1つ(157番)にも選ばれている八幡山城をご紹介します。

生憎の雨でして、写真がかなり見えにくいですが、ご了承ください。



八幡山城跡へは、近江八幡駅北口から近江鉄道バスで大杉町八幡山ロープウェー口バス停で下車すると、徒歩5分くらいで八幡山ロープウェーの公園前駅へ行くことができます。


近江八幡駅北口。
JR西日本の琵琶湖線(京都線、北陸本線直通含む)と近江鉄道の八日市線が乗り入れています。
近江八幡市の中心駅として位置づけられていて、新快速や特急も停車するとても便利な駅です。

近江八幡市は2010年(平成22年)に蒲生郡安土町と合併して人口約8万人となり、滋賀県で8番目に人口の多い市となっています。
ちなみに、市名に近江がつくのは、1954年(昭和29年)の市制施行時には福岡県八幡(やはた)市(現在の北九州市八幡東区・八幡西区)があったためです。
京都府に八幡(やわた)市がありますが、1977年(昭和52年)の市制施行時には福岡県八幡市が合併して北九州市になっていました。


橋を渡ってレッツゴー!
といいつつ、まずは橋の下に向かっていくのですがね・・・。


八幡堀。
八幡山城の堀として、防御だけでなく運河としての役割を担っていて、物流面でも重要な役割を果たしていました。
一時期、八幡堀を埋め立てて公園と駐車場にする構想もあったようですが、保存運動の結果、今では時代劇のロケなどにも用いられる観光スポットとなっています。

では、先ほどの橋を渡っていきましょう。


日牟禮(ひむれ)八幡宮楼門。
131年(成務天皇元年)に成務天皇が即位に際して、この地に大嶋大神を祀ったのが始まりといわれています。
その後、275年(応神天皇6年)に応神天皇が近江に行幸された際、日輪の形を2つ見たことから、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けたといわれています。


拝殿。
とても立派な建物です。
691年(持統天皇5年)には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたといいます。
991年(正暦2年)には一条天皇の勅願によって八幡山上に宇佐八幡宮を勧請して上の八幡宮を祀り、1005年(寛弘2年)には遥拝社を山麓に建立して下の社と名付けます。


本殿。
雨ザーザー・・・。
こちらも装飾が綺麗でとても立派な建物です。
1585年(天正13年)に豊臣秀次が八幡山城を築城する際に、上の八幡宮を下の社に合祀し、替地として日杉山に移転する予定でしたが、秀次が自刃したため移転は中止されました。
詳しくは↓↓
http://www5d.biglobe.ne.jp/~him8man/


公園前駅。
八幡山ロープウェーの山麓にある駅です。
近江鉄道のグループ会社なのですが、近江鉄道ともども西武鉄道の傘下となっていますので、西武プリンスクラブ会員は割引があります。
雨ですし、ロープウェーでさっさと山頂に上ることにしましょう。
公式サイトは↓↓
http://www.ohmitetudo.co.jp/hachimanyama/


八幡城址駅。
八幡山ロープウェーの山頂にある駅です。
こちらは山麓の駅と違って売店もなく、乗降するのみといった感じです。


恋人の聖地。
展望館へ上る階段があるのでやってくると、ベンチとモニュメントが設置されています。
NPO法人地域活性化支援センターが企画する「恋人の聖地プロジェクト」で、「恋人の聖地サテライト」に選定されているとかなんとか・・・。


LOVEのオブジェ。
ここで記念撮影でもしていってね、ということでしょうか??
まあ、雨がすごく降っていて、先が見通せない状態になってますがね(笑)


この見晴らし、最高ですね(笑)
何にも見えない。


駅の方まで戻って順路通りに進もうとすると、いきなりの石垣。
先ほどの恋人の聖地とか展望館のある二の丸跡の石垣です。
雨で霞んでなければ最高です。


おねがい地蔵堂。
村雲お願い地蔵尊が祀ってあって、自由に靴を脱いで上がることができます。
お参りすると、何か願いが叶うかも・・・?


分かれ道ですが、まず正面の石垣がスゴいです。
どうやってこんなに石を運んできたのか・・・。
右の参拝順路に沿って登っていきます。


二の丸跡。
先ほどは建物を撮影していなかった、八幡山展望館があります。
トイレもありますので、安心ですね。


参道もくねくねと曲がっていて、城跡っぽい雰囲気が漂っています。

八幡山城は、1585年(天正13年)に豊臣秀次によって築かれ、城下町は安土城から移転して近江商人の町として発展します。


村雲御所 瑞龍寺山門。
山門というより、城門ですよね?
本丸虎口跡に移築された山門の両側には、高石垣が積み上げられています。


瑞龍寺本堂。
瑞龍寺は、1596年(永禄5年)に豊臣秀次の母・智(瑞龍院日秀尼)が京都の村雲に創建した日蓮宗の寺院で、後陽成天皇の寄進を受けて日蓮宗では唯一の門跡寺院となります。
門跡というのは、皇族や公家が住職を務める寺院のことで、瑞龍寺は皇女や貴族の息女が住職となる比丘尼御所(尼門跡)にあたり、村雲御所とも呼ばれて非常に格式の高い寺院となります。
1963年(昭和38年)に本丸跡に移築され、現在に至っています。


北の丸跡。
雨でぐっちゃぐちゃです。
本丸跡からの道も一部水没しているところがあり、水たまりを避けるために道の隅っこを通らざるをえませんでした(汗)


西の丸跡。
こちらも雨でびしょびしょです。
西の丸跡付近から出丸跡に行く道があるのですが、天候不順により断念しています。


猫。
西の丸跡を守る(?)猫。
雨で濡れていて、あまり元気がありませんでした。

秀次は1590年(天正18年)に尾張国の清洲城へ転封となり、代わって京極高次が大溝城から入り、城主となります。


本丸石垣を横目に見ながらロープウェーの駅に戻ります。
多分天守台だと思うんですが、雨でゆっくり見れなかったので確証はありません。
八幡山城には3層の天守がそびえていたと推定されています。


八幡公園。
今度は麓の公園にやってきました。
八幡山城の特徴として、城主の豊臣秀次の居館は八幡山の麓付近に築かれていて、山頂の山城部分と山麓の居館部分の2つに分かれています。
八幡山の斜面が急峻だったため、こうせざるを得なかったようです。


大手道跡。
安土城の大手道に非常によく似た、左右に家臣の屋敷を配置した直線に近い道です。


八幡公園の多目的広場。
大手道から少し逸れたところにある、八幡公園の中心的な広場です。
八幡公園はこの多目的広場が居館部分の大手道の隣にあって、公園の隅っこが居館部分なので何とも微妙な感じになります・・・。
史跡保存と公園整備の両立を図った結果なのでしょうか?


多目的広場の隣にある小さめの広場。
多目的広場よりもう少し上の段にあるのですが、ここには豊臣秀次の像があります。


豊臣秀次像。
八幡山城の築城主・豊臣秀次の像です。
豊臣秀次は豊臣秀吉の甥(姉の子)で、幼少時には浅井長政の家臣・宮部継潤の人質となり、そのまま養子となって宮部吉継と名乗ります。
その後、今度は三好康長の養子となり三好信吉として三好氏の名跡を継ぎます。
さらに、豊臣秀吉が天下統一への道を歩み始めると羽柴秀次と名乗り、秀吉の嫡子・鶴松が没すると秀吉の養子となって豊臣秀次となります。
叔父の秀吉の影響が大きいとはいえ、秀次も農民の子から関白まで上り詰めるというなかなかの出世っぷりですね。


大手道を進んでいくと途中でカーブしているのですが、その辺りから立派な石垣が見えてきます。

1595年(永禄4年)、関白・豊臣秀次が秀吉への謀反の疑いから出家、自害させられると、京極高次は近江国・大津城へと転封となり、八幡山城は山城国・聚楽第とともに廃城となりました。


居館跡の石垣もかなり大規模です。


豊臣秀次居館跡。
一段高くなった基礎的な石垣がボロボロのブルーシートに覆われています。
この辺りが発掘調査された居館跡と思われます。
せめて石碑か案内板があるといいんですが・・・。
竹林でかなり鬱蒼としています。


正一位 赫霊稲荷大明神。
居館跡部分の片隅に稲荷大明神が祀られています。
赫霊(かくれい)って何?



ちゃんぽん亭総本家 近江八幡駅前店。
大津でも立ち寄ったちゃんぽん亭さんに、近江八幡でも立ち寄ってみました。
近江ちゃんぽんが滋賀の人にとってソウルフードらしいですが、ちゃんぽん亭さん以外のお店を見たことがないですね。
公式サイトは↓↓
http://chanpontei.com/


近江ちゃんぽん並(750円)。
オーソドックスな近江ちゃんぽんにしてみました。
野菜とか色々入っていてバランスがよかったです。

わずか10年でその歴史に幕を閉じたとは思えない、大変立派な石垣が残る城跡でした。
やっぱり続日本100名城に選ばれるだけあって、スケールが大きいです。

28歳の若さで波乱万丈な生涯に幕を閉じた豊臣秀次を思いながら、恋人の聖地としての売り出し方に少々複雑な思いを抱きながら終わりたいと思います。

では、この辺で。


御城学。