真壁城(常陸国・茨城県桜川市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

今回は、現在の茨城県桜川市(旧真壁郡真壁町)の真壁城です。



真壁城跡は現在、本丸跡は桜川市真壁体育館および桜川市農業者トレーニングセンターとなっていて、二の丸跡や中城および外曲輪は史跡公園として整備中です。
岩瀬駅から桜川市バスのヤマザクラGOに乗り、真壁城跡バス停で下車すると徒歩5分くらいで行くことができます。
ヤマザクラGOの車内放送は桜川市出身で「さくらがわ応援大使」の声優・櫻川めぐさんが担当しています。誰・・・??


岩瀬駅。
JR東日本の水戸線が乗り入れています。
1987年(昭和62年)までは筑波鉄道筑波線も乗り入れていましたが、廃止となっています。
桜川市は2005年(平成17年)に西茨城郡岩瀬町と真壁郡真壁町および大和村が合併してできた市で、人口はおよそ4万人です。


桜川市真壁体育館。
真壁城の本丸跡にそびえる体育館です。


国指定史跡 真壁城跡の碑。
真壁城跡は1994年(平成6年)に国の史跡に指定されています。
国の史跡に指定されてから約25年、ようやく城跡の復元整備に取り組んでいるといった状況です。


本丸搦手虎口。
鳥居やら神社やら石碑やらが見えます。

真壁城は、1172年(承安2年)に常陸大掾氏の一族である真壁長幹が築いたのが始まりといわれています。
以後、代々真壁氏が城主となります。


史蹟 真壁城址の碑。
こちらは1935年(昭和10年)に設置された石碑です。皇紀2595年だそうです。


正一位子育稲荷神社。
稲荷神社特有の鳥居がいくつも連なっているのは分かりましたが、かなり小さな神社です。
正一位って、関白や太政大臣、征夷大将軍レベルですよ??この神社、そんなにすごいんですか??


搦手口の木橋が架かっていた半島状の地形が分かりますでしょうか??

南北朝時代に真壁氏は当初、南朝につき北朝方の佐竹氏と対立しますが、後に北朝方へ転じて足利尊氏から本領を安堵されたといいます。


一の堀。
本丸と二の丸の間の堀ですが、このスケールでもだいぶ浅くなってしまっているとのことです。
復元整備の過程で、ここもどのように整備されていくのか、注目したいと思います。


仮設の通路。
虎口っぽくなっていますが、この通路はあくまでも工事用車両や見学者が通るための仮設通路です。
ここもどのように整備されていくのか注目ですね。


二の丸跡。
工事関係者用と思われる仮設の小屋が乱立しています。

1423年(応永30年)に真壁秀幹は上杉禅秀の乱と小栗満重の乱に与したとして足利持氏の軍勢に攻められ落城、所領も没収されます。


二の丸東虎口。
土塁も低くなっていて、堀も約半分しか残っていません。
ここからどういう風に復元していくのでしょうか・・・?


二の堀。
二の丸と中城の間の堀です。
草が生い茂っていて分かりにくいです。


中城南側(南曲輪?)の南側にある堀。
南側南側とうるさくてすみません。
広大な敷地と整備途中で散策している私自身、状況(現況)がよくつかめていないのが正直なところです。


中城南側の曲輪。
ここからまだ整備途中の部分に入っていきます。

秀幹の甥・朝幹は真壁氏の再興に奔走し、所領の回復に尽力します。


復元された木橋。
中城と南側の曲輪の間に木橋が復元されています。
木橋の真ん中を歩くと若干弾むような感じになるので、不思議な感覚に陥りました。


復元途中の水堀。
中城の土塁から見た写真です。
これから芝生ブロックを敷き詰めていく感じでしょうか?


中城。
真壁城工事中です。

1602年(慶長7年)に佐竹氏が秋田に転封となると、佐竹氏の家臣となっていた真壁氏も出羽国角館に移住します。


外曲輪南虎口。
江戸時代以降の耕作により、土塁はかなり削り取られてしまっていますが、現在復元工事の真っ最中です。
急カーブの道が虎口っぽさを醸し出していますね。

1606年(慶長11年)に浅野長政が真壁藩主となりますが、子の長重の代に常陸国笠間城へ移ったため、真壁城は廃城となりました。


中城はこのように復元中のエリアとの境目がハッキリと分かります。
それにしても、そんな無理やり平らに復元する必要ある?というくらい、やりすぎ復元になる可能性が懸念される状況といえなくもないです。


中城東土塁。
手前側には櫓があったと思われるくらいの規模の土塁です。
写真真ん中あたりの穴は、旧日本軍が土塁を弾薬庫として用いるためにくり抜いたもので、戦後も花崗岩を採掘する際の火薬庫として用いられていたそうです。
旧真壁町は石材産業が盛んな街ですし、採掘のために火薬を用いていたのは納得です。


中城南東虎口。
築城当初は木橋が架かっていて、後に土橋に付け替えられたのだそうです。
中城と外曲輪をつなぐ、非常に重要な土橋です。


三の堀。
中城と外曲輪の間の空堀です。
あまりにもスケールが大きくて、ビックリしてしまいます。


外曲輪。
広大な平地が広がっています。
ここにはかつて、薬研堀に囲まれた館がいくつも連なっていたそうです。


鹿島神社鳥居。
外曲輪の南東隅に鹿島神社があります。

その後、真壁は笠間藩の飛び地となり、真壁陣屋が笠間藩の出張所としての役割を担い、明治を迎えます。


鹿島神社観音堂。


現存する土塁。
鹿島神社の裏手にある外曲輪の土塁です。
数少ない現存する遺構です。


外曲輪北虎口。
両側の土塁が何となく喰い違い虎口を形成しているような気がします。


四の堀。
外曲輪周囲の堀で、真壁城の外堀にあたります。
堀底から土塁の上まではおよそ7メートルあり、さらには堀に畝が設けられていたようです。


同じく四の堀。
土塁上から見た写真ですが、見ての通り直角に折れ曲がっていて横矢が掛けられています。

ここからは、真壁陣屋跡へと向かうことにします。


真壁駅跡。
1987年(昭和62年)に廃止になった筑波鉄道筑波線の真壁駅がありました。
筑波線の線路跡はサイクリングロードに転用されていて、真壁駅跡には休憩所が設けられています。
単式ホームと島式ホームの跡が当時のまま残されています。


真壁伝承館。
歴史資料館、公民館、図書館が併設された複合施設です。
2011年(平成23年)に真壁陣屋跡に建設されました。
真壁伝承館歴史資料館については↓↓
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/page/page002212.html


堀跡と水路跡。
真壁伝承館の裏手に残された真壁陣屋の遺構です。
正面の茶色い部分が堀跡で、右に斜めに伸びている黒い部分が水路跡です。

復元整備工事の真っ只中に訪問した形となりましたが、その城域の広さに驚くとともに、これからどのように復元されていくのだろうと期待と不安が入り混じった気持ちになりながら見学してきました。

長くなりましたが、この辺で。
では。


御城学。