水原城(越後国・新潟県阿賀野市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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さて、久々の更新となりましたが、今回は現在の新潟県阿賀野市(旧北蒲原郡水原町)にあった城、水原(すいばら)城です。

水原城で検索すると、韓国の水原(スウォン)市にある水原華城がヒットするんですが、さすがあちらは世界遺産だけあるなと・・・。
そういえば、韓国に築かれた日本式城郭を倭城と呼ぶようですが、中国朝鮮で倭というのは日本の蔑称なので、日本で使うのは好ましくないのかなと思います。
東シナ海という単語を中国が用いないのと同様のケースかなと個人的には思いますが、他に適切な言葉が見当たらないのかもしれません。

水原城跡は現在は水原代官所となっていて、JR東日本羽越本線の水原駅から徒歩20分くらいのところにあります。
水原と書いて「すいばら」と読みます。「みずはら」でもなければ「スウォン」でもありません。

阿賀野市は2004年(平成16年)に北蒲原郡水原町、安田町、京ヶ瀬村、笹神村の4町村が合併してできた市です。


水原ふるさと農業歴史資料館。
こちらが水原代官所の受付を兼ねています。
阿賀野市の歴史や農業に関する展示の他、観光スポットの案内や特産品の販売もおこなっています。
詳しくは↓↓
http://www.city.agano.niigata.jp/soshiki/kankou/83.html


水原代官所表門。
幕府直轄領であったこの地の役所として置かれた水原代官所は、年貢の徴収や民政に止まらず、福島潟の開発や新発田藩、村上藩の監視役としての機能も果たしていました。
現在の水原代官所は1995年(平成7年)に復元されたものです。

水原城の築城年代は定かではありませんが、鎌倉幕府の御家人・大見家秀の一族である水原氏が居城としていました。


水原城館・水原代官所跡の碑。
門の右側に設置されていて、隣には碑文として説明が書かれた石碑が設置されています。

戦国時代になると、水原氏は上杉謙信の家臣となり、1578~1580年(天正6~8年)の御館の乱で水原満家は上杉景勝方を支持します。
1581年(天正9年)の新発田重家の乱で満家は重家に討たれると、水原城は新発田重家の手に落ちますが、その後に上杉景勝の猛攻を受けて1584年(天正12年)に落城、景勝の家臣・大関親憲が入り水原親憲と名乗ります。


杉原常陸介碑。
表門の左側に設置されています。
隣に水原常陸介碑移転記念とありますが、元は別な場所にあったのでしょうか?
杉原(すいばら)常陸介というのは上杉氏の家臣・水原(すいばら)親憲のことで、江戸時代に水原から杉原に改めています。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣での功績から将軍家より賜った感状のあて名が、誤って杉原となっていたためそのまま杉原に改めたのだそうです。


水原代官所。
年貢収納や民政の執務をおこなった公事場や、裁判をおこなった白洲などが代官所の平面図に基づいて復元されています。
詳しくは↓↓
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7366

1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転封となると、水原親憲も猪苗代城へと移ったため水原城は廃城となります。



史跡 越後府跡。
1837~1842年(天保8~13年)にかけて、日本で3本の指に入るともいわれた豪農・市島家が別邸として継志園を建設します。
ところが、継志園は戊辰戦争の際に会津藩の本営として用いられたため戦火にあい焼失してしまいます。
この跡地に置かれたのが越後府です。

1746年(延享3年)、幕府直轄領の統治と新発田藩・村上藩の監視の拠点として水原城跡に水原代官所が設けられ、1868年(慶応4年)に会津藩預かりとなるまで続きます。


天朝山公園入口。
越後府跡は現在は天朝山公園として整備されていて、駐車場から虎口っぽい曲がった坂道を登って入ります。
水原代官所からは徒歩10分くらいのところにあります。

戊辰戦争で水原代官所は新政府軍の侵攻を受けると会津軍は撤退、代官所は新政府軍により接収されます。
その後、近隣に越後府が置かれたため水原代官所は破却されました。


天朝山公園。
遊具も充実していて、子供が遊ぶにはもってこいです。
詳しくは↓↓
https://niigata-kankou.or.jp/spot/7393


公園内には池がありますが、水堀として造営されたわけではなさそうな位置にあります。


復元された物見櫓(矢倉)。
2層2階の物見櫓が当時とほぼ同じ位置に復元されています。
明治に築かれた櫓とは思えないほど中世の城の櫓っぽい雰囲気があります(個人の感想です)。


継志園記の碑。
飢饉の際に困窮する人々を雇って別邸建設工事をおこなったという、市島家の功績が刻まれています。



瓢湖。
1626年(寛永3年)に新発田藩主の溝口氏が渇水対策用に造営を開始した人造の湖で、13年後の1639年(寛永16年)に完成しました。
当時の形が瓢箪に似ていたことから瓢湖と名付けられたのだそうです。


まあまあ巨大な湖です。
冬季には白鳥が越冬のために飛来してくることで有名で、1954年(昭和29年)に国の天然記念物に指定されています。
2008年(平成20年)にラムサール条約の登録湿地となっています。


あやめ園。
瓢湖に隣接していて、訪問時にはあやめ祭りが開催されていました。
あやめってこんなに多くの種類があるんだな~と、ビックリしました。

正直、城跡っぽいところはほとんど残っていないのですが、代官所だったり越後府跡だったり瓢湖だったり、この地の歴史を彩った場所が多く残されているのは素晴らしいことだな、と思いました。

では、この辺で。


御城学。