高安寺城(武蔵国・東京都府中市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

おしろまなぶ の お城を学ぼう

訪問したお城について書いていきます。


乙女のトキメキブログを書いてて良かったことは?照れ

みんなの回答を見る右矢印
キャンペーン詳細右矢印



ブログを書いててよかったことは、ブログやってなかったら関わらなかったであろう方々と知り合えたりできたことですかね。
そこは本当に視野が広がったり、色々知ることができましたので、よかったです。

さて今回は、現在の東京都府中市にあった城、高安寺城です。
最近ブログ更新をたびたびサボってますね。すみません。



高安寺城跡は現在、高安寺となっていて、分倍河原(ぶばいがわら)駅から徒歩7~8分くらいのところにあります。


分倍河原駅。
京王電鉄の京王線(高尾線、動物園線、都営新宿線直通含む)とJR東日本の南武線が乗り入れています。
乗り換え駅の割に駅構内は非常に狭く、朝のラッシュ時などは非常に混雑するであろうことが、容易に想像できます。


高安寺総門。
住宅街の一角に突如として出現します。

高安寺城は、940年(天慶3年)に藤原秀郷が居館を置いた見性寺が始まりとされています。


観音堂。
もともとは高安寺の西の観音橋付近にあったのですが、洪水で流されたため享保年間(1716~1736年)に現在地に移されました。
府中市の重要文化財に指定されています。

1333年(元弘3年、正慶2年)、鎌倉幕府打倒のために新田義貞が陣を置き、北条泰家率いる幕府軍と激しい戦いを繰り広げます(分倍河原の戦い)。


山門。
1872年(明治5年)に建てられた、左右に仁王像を配しています。

1348年(貞和4年)、室町幕府初代将軍となった足利尊氏によって全国に建立が進められていた安国寺の1つとして、高安護国禅寺と改められます。
室町時代には鎌倉公方の軍事拠点としての位置づけを強めることとなり、1381年(永徳元年、弘和元年)には2代鎌倉公方・足利氏満が小山義政討伐のために陣を置き、1399年(応永6年)には3代鎌倉公方・足利満兼が将軍・足利義満打倒を図って陣を置いています。


本堂。
現在の本堂は1803年(享和3年)に建てられたもので、山門や鐘楼とともに東京都選定歴史的建造物に選ばれています。

4代鎌倉公方・足利持氏も1423年(応永30年)には小栗満重討伐のために、1438年(永享11年)には関東管領・上杉憲実討伐を図って陣を置きます。
しかし、持氏は将軍・足利義教によって討伐の命が出され、敗れた持氏は幽閉先の永安寺で自害します(永享の乱)。


古蹟 弁慶硯の井戸の碑。
ここからもう少し行ったところに弁慶硯の井戸があります。
足元が非常に悪いので、ご注意ください。

1455年(享徳4年)の2度目の分倍河原の戦いでは5代鎌倉公方・足利成氏が陣を置き、攻め込んできた扇谷上杉氏を撃退しています。
その後も数々の戦乱の舞台となり、次第に荒廃していきます。


弁慶硯の井戸。
源義経が兄・頼朝の怒りを買ったため鎌倉入りを許されなかったことから、やむなく京都へ帰る途中に立ち寄り、叔免祈願のために弁慶らと大般若経を写しました。
この時、弁慶が裏山の水を汲んできたことから、弁慶硯の井戸と呼ばれるのだそうです。

慶長年間(1596~1615年)に高安寺は再興されて海禅寺の末寺となり、曹洞宗に改められました。



分倍河原古戦場の碑。
東京都指定旧跡に指定されていて、1333年(元弘3年、正慶2年)の分倍河原の戦いがここで起こったことを示しています。
あれ?1455年(享徳4年)の方は??いいんですか??


新田川緑道。
分倍河原古戦場の碑がある緑道です。
川のそばを通って自然と触れ合うことができます。



味の天徳 油そば 分倍河原店。
分倍河原駅から徒歩1分くらいのところにあるこちらのお店でお昼を頂きました。


醤油 油そば 大盛(500円)。
訪問したのが天徳の日だったため、通常の700円から200円引きです。
ボリューミーで大変満足です。

城としての遺構はハッキリしませんでしたが、まあこんなものかな?と思います。
では、この辺で。


御城学。