大庭城(相模国・神奈川県藤沢市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

5年前の今日も確か、金曜日だったと記憶しています。
東日本大震災から5年が経過しました。
長いようで短い、短いようで長い5年間でした。
今でも当日のできごとをよく覚えています。

さて、今週はようやく城です。
現在の神奈川県藤沢市にあった城、大庭(おおば)城をご紹介します。

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大庭城跡は現在、大庭城址公園として整備されていて、藤沢駅または辻堂駅から神奈川中央バスに乗り、舟地蔵バス停で下車して徒歩5分くらいのところにあります。

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藤沢駅北口。
JR東日本の東海道線、湘南新宿ライン(高崎線直通)、上野東京ライン(高崎線、宇都宮線直通)と、小田急電鉄の江ノ島線、江ノ島電鉄(江ノ電)の江ノ島電鉄線が乗り入れています。
湘南と呼ばれる地域の中で最大の人口を誇る藤沢市の中心駅で、とても便利です。
一時期、茅ヶ崎市、平塚市、高座郡寒川町、中郡大磯町、二宮町と合併して湘南市となる協議が進められたことがありましたが、実現には至っていません。

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大庭城址公園の入口。
ここから階段を上っていきましたが、どうやらここは裏口のようです。
大庭城址公園について詳しくは↓↓
http://f-machikyo.or.jp/kouen06.htm
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouen/kyoiku/leisure/koen/fujisawashi/obajoshi/

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適度に整備された登城路が素晴らしいです。

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空堀跡。
登城路の途中で空堀を発見。

大庭城は、平安時代末期(12世紀末ごろ)にこの地を本拠としていた大庭氏の拠点だったとされています。

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小さな郭跡(?)。
上の写真の空堀から向かって右側へ登っていくと郭っぽい平地があります。
まあ、木が生い茂っていてよく分かりませんが・・・。

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大庭城跡の碑。
さらに登城路を進んでいくといきなり主郭(一の郭)に出ます。
主郭に入ってすぐのところに碑があります。

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井戸跡?

その後、室町時代中頃(15世紀後半)に、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が本格的な築城をおこなったとされています。

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掘立柱建物址。
大庭城主郭の掘立柱の柱穴がある位置を表示しています。
実際の柱穴は地下50センチのところに保存されています。
地中に埋めて保存、よくある方法ですが、見れないのはちょっと悲しいですね。

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からぼり。
いいですね、ひらがな(笑)
しかし、写真では空堀が分かりにくい・・・。

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空堀。
主郭と二の郭の間の空堀です。
からぼりの碑とは反対側の方が見やすかったので、そちらの写真です。

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二の郭の土塁。
ちょっと低いですが。この土塁の背後が先ほどの空堀です。

1512年(永正9年)、上杉朝良の時に北条早雲によって攻略されると、大庭城は以後は後北条氏の城となります。

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土塁の反対側にある謎の看板。
何にも書いてありません(汗)
文字が消えたのか、貼ってあったものが剥がれたのか・・・。

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二の郭。
遊具があったり、広場があったりしていて、普通の公園の雰囲気です。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、大庭城も廃城となりました。

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空堀。
二の郭と三の郭を隔てる空堀です。
なかなかの深さがあります。

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大庭城址の碑。
三の郭にあります。
二の郭~三の郭~四の郭は後世の改変によって一部が一体化していますが・・・。

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滑り台を降り切ったあたりにも二の郭と三の郭を隔てる空堀があったと思われます。
何となく地面がV字になってるんで、きっとそうでしょう。
城址公園のチビッコ冒険広場と多目的広場の間にあります。

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三の郭の土塁。
写真だと分かりにくいですが、結構立派な土塁です。
城址公園の多目的広場にあります。

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空堀跡の痕跡。
城址公園の大芝生広場の真ん中にこんな段差があります。
三の郭と四の郭を隔てる空堀だったと思われます。

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四の郭跡。
大芝生広場の一部と化しています。
レジャーシートを敷いてお弁当とか食べてみたくなりますね。

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足型モニュメント。
1990年(平成2年)に市制50周年を記念して市民から募った足型を用いて造られたモニュメントです。


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舟地蔵。
地蔵尊の台座が舟形となっていることから舟地蔵と呼ばれています。
北条早雲が大庭城に攻め込んだ際、大庭城の周囲は沼地で囲まれていて、なかなか攻め入ることができませんでした。
後北条方は沼の近くに住む老婆から、引地川の堤を切れば沼は干上がることを聞き出しますが、秘密が漏れるのを恐れて老婆を切り殺してしまいました。
この老婆を供養するのに建てられたのが、この舟地蔵といわれています。
バス停の名前の由来にもなっていますね。

久々に長めのブログとなりましたが、若干整備しすぎな感もある大庭城のブログをこの辺で終わりたいと思います。

では。


御城学。