小諸城(信濃国・長野県小諸市) | おしろまなぶ の お城を学ぼう

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訪問したお城について書いていきます。

小学校入学の準備、進んでますか?
結構色々と揃えるものが多くて大変ですよね~(汗)


ピアニカとか、なんやかんやと・・・。

さて今回は、近年再訪した雪景色の写真を加えて再編集したブログをお送りします。
このため9年ほど前にアップした写真と入り混じっていますが、ご了承ください。

ということで、今回は日本100名城の1つ(28番)にもなっている、小諸(こもろ)城をご紹介します。

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小諸城跡は、現在、市営公園小諸城址懐古園として整備されていて、小諸駅から連絡通路を渡ってすぐのところにあります。
公式HPは↓↓
https://www.city.komoro.lg.jp/kaikoen/index.html

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小諸駅。
しなの鉄道のしなの鉄道線、JR東日本の小海線が乗り入れています。
1997年(平成9年)年の北陸新幹線(長野新幹線)の部分開業で、JR東日本の信越本線が経営分離されて、しなの鉄道となっています。
小諸駅は、小諸城の三の丸に当たる場所にあります。


大手門(現存)。
明治以降、大手門は小諸義塾の仮教室や料亭として用いられていたようで、多少の改変が加えられていましたが、2008年(平成20年)に江戸時代の姿へと復元されています。

小諸城は、平安時代末期に小室光兼が築いた館が始まりとも、戦国時代に大井光忠が築いたともされています。

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旧小諸本陣。
小諸宿の本陣兼問屋場だった建物で、18世紀末~19世紀初頭に建てられたと推定されています。
ここで、宿泊者の人馬や駕籠の手配や荷物の受け渡しなどをおこなっていました。

1554年(天文23年)に小諸城は武田信玄の支配下におさめられ、山本勘助が戦国城郭へと改修をおこないます。

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小諸宿本陣主屋。
参勤交代の大名などが宿泊した建物で、明治時代に佐久市の寺院に移築されていたものを、1997年(平成9年)に現在地に移築再現したものです。
一時閉館しましたが、現在はNPOによる指定管理の下、内部を見学することができます。
指定管理者のNPO法人こもろの杜によるHPは↓↓
https://honjin.wixsite.com/komoro/


三の門(現存)。
1615年(元和元年)に建てられたこの門が、懐古園の入口となっています。
門に掲げられている「懐古園」の大額ですが、徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと)の筆によるものです。

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徴古園。
中は歴史資料館となっています。
建物内にある事務所に200円を支払ってスーツケースを預かって頂きました。
建物脇のコインロッカーに入らない荷物は事務所に相談してみましょう。コインロッカーと同じ金額で預かってもらえます。


水櫓跡。
ここには水車が設置されていて、川の水をくみ上げて城内各所に給水していました。
このあたりの地盤は火山灰層で、井戸を掘るにもなかなか難しかったようです。


二の門跡。
片栗粉のような雪の感触に、妻も娘も大喜びでした。

武田氏が滅亡すると、織田氏、後北条氏、徳川氏と領主が変わり、1590年(天正18年)の小田原攻め後には、豊臣秀吉に軍功を認められた仙石秀久が小諸城主となりました。


二の丸跡・・・はこの上ですが、雪がスゴいので上に行くのは自重しました。
関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠がここに陣を置き、上田城に攻め込みました。
結局、真田氏の巧みな戦略によって上田城を落とすことができず、徳川秀忠は関ヶ原の戦いに遅れてしまいました。

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北の丸跡。
現在は小諸懐古射院という弓道場が建っています。


南丸跡・・・も、この上ですが、やはり雪のため上に行くのは自重しました。
野面積みの石垣が垂直に近い角度で積まれていて、迫力があります。


黒門跡と黒門橋。

仙石秀久によって、小諸城は関東に転封された徳川家康領に接する豊臣政権の最前線として、三層の天守や二の丸、黒門、大手門が造営されるなど、大規模な改修が施されます。


黒門橋から見た空堀。
小諸城は穴城とも呼ばれているように、城が城下町より低い位置に築かれています。
この防御上の欠点を補うように、巨大な空堀が幾重にも巡らされています。
見事な深さの空堀に驚愕でしたが、娘にもこの土木工事のスゴさを説明してみましたがものの、「スゴいねー(棒読み)」で終わってしまいました(汗)


お駕籠台跡。
ここで城主が駕籠に乗り降りしていたのでしょうか・・・?


本丸跡。
本丸跡は現在、懐古神社の境内となっています。

仙石秀久は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍についたため、その後も引き続き小諸城を居城としました。

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懐古園の碑。

1622年(元和8年)に仙石秀久の子・忠政が信濃国上田に移封となると、徳川家光の弟・松平忠長が小諸城に入ります。

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鏡石。
この鏡石を山本勘助が愛用していたとされています。
ここで甲冑の着こなしや、兜が曲がってないかなどをチェックしていたのでしょうか??


天守台。
荒神曲輪から見た写真です。
かつては三層の天守が建っていましたが、1626年(寛永3年)に落雷により焼失して以降、再建されることはありませんでした。
高さがあって、とても迫力のある天守台ですね。
また、雪が石垣に付着してる感じがとてもいいです。

その後、親藩・譜代大名が目まぐるしく城主が交替しますが、1702年(元禄15年)に越後国与板から牧野康重が入ると、以後は牧野氏が代々小諸藩主を歴任し、明治を迎えます。


荒神井戸。
1742年(寛保2年)に起こった寛保の大洪水後に荒神曲輪に掘られた井戸で、小諸城で唯一の井戸です。

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藤村記念館。
明治期に小諸に開校した私塾・小諸義塾に教師として招かれた詩人の島崎藤村は、結婚して子供も生まれるなど6年間をこの地で過ごしました。
これを記念して1958年(昭和33年)に開館したのが、こちらの記念館です。
詳しくは↓↓
https://www.city.komoro.lg.jp/kaikoen/around/7137.html


馬場跡。
ここで馬の訓練をしていたのでしょうか。

明治時代になると、小諸城の本丸跡には懐古神社が祀られ、懐古園と名付けられました。

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武器庫(再建)。
東京に移築されていたものを、外観など当時の原形に近づけて再建したものとのこと。
武器庫が長野~東京を往復してきたと思うと大移動してきたんだなぁと思いました。


水の手展望台(水の手不明御門跡)。
城の搦め手にあたる門の跡なのですが、展望台と渡り廊下(?)が設置されていて、門の跡を間近で見れないのが難点です。


水の手展望台からの景色。
こちらの写真は娘が撮影しました。
谷間に千曲川が見えます。
千曲川が小諸城の堀の役割も果たしていたのでしょうね。

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搦め手側はこのように断崖絶壁となっています。
大手門から本丸に向かって、どんどん低地になっていくのですが、最後にこの断崖。
これではなかなか搦め手側から攻め入るのも難しいでしょうね。

今回、家族で冬の小諸城を訪問しましたが、娘は雪の上を歩くのは楽しかったようですが、長靴の中が濡れてくると愚図り始めました(苦笑)
嫁さんは終始雪の上を歩く感触を楽しんでいました。

では、今回はこの辺で失礼します。


御城学。