ベルギーでの日々 アントワープ暮らし(33)Maagdenhuis | M.K.S Blog

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料理家・栗山真由美 ライフワークは料理と旅

 

こんにちは。

久々にアントワープの投稿です。

 

ちょっと地味目で、旅行者が押し寄せるほどの場所でもなくて、でもアントワープの歴史に強く関わる博物館があります。

一旦、地球の歩き方ブログに載せようとしたのですが、ちょっと毛色が違うと思いこちらにニコニコ

Maagdenhuis(マーグデンハウス)という、アントワープ中心部にある博物館で前身は女子孤児院。

 

当時の洋服の展示。左のブラウスなんか、今でも私が着たい感じです目がハート

 

まずは、Maagdenhuisの成り立ちを歴史から紐解いていきます。

中世初期から 11 世紀までは、貧しい人々への救済は教会の役目でした。

12 世紀以降になると、多くの地方住民が都市に移住し、これは裕福な都市居住者にとって脅威となります。

社会不安や伝染病を防ぐために、彼らは困っている人たちが一時的に避難できる避難所を設立しました。

14 世紀は壊滅的な飢餓の時代であり、さらにペストが発生しました。

その激動の時代、1350 年頃に、ドイツの裕福な商人Hendrik Sudermanは、貧しい少女や女性のための家「Vrouwkenshuis」を設立しました。

 

赤ちゃんポストです。

 

一方で、富を築いたJan Van der Meerenは、孤児の少女たちが危険にさらされているのを目の当たりにします。 

3 人目の妻が亡くなり、11 人の幼い子供が残された彼は、貧しい孤児の少女たちのための孤児院「Maegdeckenshuis」の設立を思いつき、1552 年に「Vrouwkenshuis」の隣に建てました。

 

 

更に実業家Gilbert Van Schoonbekeの財産全体が「Maagdenhuis」の所有となり大幅に拡大が可能になりました。

白い天然石の正面ファサードはこの頃に完成しました。

 

拡大したMaagdenhuisは100人の子供の収容が可能で、住居、食事、教育が行われました。 彼らは読み書き、フランス語、数学も学びました。更に、裁縫、レース作り、糸紡ぎ、洗濯や料理も学び、生活力をつけていったのです。

 

Maagdenhuisにも困難な時期があり、少女たちは主に労働者となり、裁縫やレースの仕事をして費用をまかなったのです。 

特に18世紀は、他のことを学ぶ時間がありませんでした。

少女たちは朝早くから夜遅くまで働いていました。

 

幸いなことに、これは 19 世紀に再び変化し、教育が労働よりも優位な立場を取り戻しました。

1882年にMaagdenhuisは女子孤児院としての扉を閉じました。

 

何世紀にもわたって、慈善団体は相続や寄付を通じて多くの芸術作品を収集してきました。

Maagdenhuisの旧礼拝堂には 84 点の絵画を収蔵し、1884 年に博物館として開館しました。

しかし、数年後、芸術の殿堂KMSKAがオープンし、ほとんどの芸術作品は、KMSKAに移されました。

 

その後、転機は1930年にやって来ます。 

アントワープでの万国博覧会と慈善活動に関する国際会議の機会に、新しいMaagdenhuis博物館をオープンすることになります。

ヨルダーンスやヴァン・ダイクなどの作品を鑑賞できるほか、公的貧困救済に関する重要な歴史文書も見ることができます。

 

Triptoek van Jan van der Biest©︎Pieter Aertsen

OCMW(公共社会福祉センター)アントワープの歴史は、中世初期のさまざまな慈善活動に遡り、Maagdenhuisの豊かな芸術遺産に反映されています。

 

すべての芸術作品はアントワープの社会史の一部と、そして、多くの食器は、Maagdenhuisの歴史と何世紀にもわたる貧困救済に直接関係しています。

 

お粥ボウルだそうですひらめき

 

手洗いですが、繊細で美しい。

 

名簿です。重みがありますね。

 

最後に木製のクララをご紹介します。

 

Maagdenhuisを舞台にしたHendrik Conscienceの中編小説に登場するクララという少女の物語。

スペインの伯爵にはフランドル人の妻カタリナがいますが、カタリナには伯爵と結婚前にアントワープ在住の婚約者がいました。

しかし彼は、1576年の反乱で亡くなってしまう。

カタリナは彼との間に授かったクララをアントワープに残し、スペインに嫁ぐ。

しかし、大きな後悔が残り、彼女は捜索に出て、Maagdenhuisでクララを見つけ、頻繁に訪ねることになります。

これに気づいたスペインの伯爵は後にクララに会います。

彼は、彼女の素朴さと優しさにとても感銘を受け、彼女を養子にすることに決めました。

彼らは末永く幸せに暮らしました・・・という、この物語は残念ながらフィクションですが、語り継がれ、劇場でも上映されてきたようです。

 

クララはいつも直立不動で立っていたため、「木のクララ」というあだ名が付けられました。

中庭には、制服を着た 17 世紀の孤児の少女の木製像があります。

Maagdenhuis に暮らす他の女の子たちの、クララに対する親愛を元に、リクエストで作られたものと言われています。

写真のクララのレプリカは、品質の違いと木で作ることの難しさを示しているのだそう。

 

少しマニアックかもしれませんが、アントワープの歴史とここにおける福祉の歴史も絡み合って、興味深かったです。

 

場所は街の中心の便利なエリアにあって便利です。

サイトを貼っておきますね左下矢印

 

 

では〜ニコニコ