腰越ぶらり散歩
小動岬の岩場
今日は朝から金環日食で町中が
おおさわぎだった。
うちのあたりでは曇りのため見る
ことができなかった。
テレビでどの局も金環食の中継をして
いたから、その映像を見れば十分だ。
海南島からはじまった金環食騒動は
台湾、日本列島各地へとつたわって
行った。
数分間の”幸せ”が国境を越えて
連鎖してゆく映像を、世界の人々が
同時にながめるというのは、
めでたいことではないか。
金環食用メガネ屋以外、とくにこれで
大儲けしたという話は聞かない。
人は損得で金環食を見るのではない。
でも、見る。 なぜか。
いっときの”幸せ”をゲットするためだ。
では、なぜ、
人は金環食を見て”幸せ”になれるのか。
昔の日本人は、
毎朝、お天道さまを拝んだものだ。
東の方、お天道さまに向かって
パチパチと柏手を打ち、
最敬礼したものだ。
お天道さまは神様だから
とうてい人間の手のとどく存在では
ない。
お天道さまは人間のすることを
いつもすべて見ていらっしゃる。
『万事お天道さまがお見通しだ』
『お天道さまが見てるから悪いことは
出来ないよ』
とむかしから言われてきた。
畏れ多い神様であるお天道さまが
金環食を見てしまうと、
なんだか急に、
やさしい存在になったような、
そんな感じがして・・・
人は”幸せ”な気分になるのだろうか。
しかし、それは日本人だけの話で、
台湾や、海南島の人々に共通する
話ではない。
台湾人やシナ人は金環食をなぜ見る
のだろう。
たんなる話題性に反応しただけなのか。
ひょっとしたら、
太陽にたいする信仰心が
彼らの魂の底辺にもあるのではないか。
五月~風かおる季節
湘南の海が君を呼んでいる
もう五月か。あれから1か月が過ぎた。
腰越海岸に来ている。
この季節、腰越は人でいっぱいだ。
いつからだろう?
江ノ電「腰越」駅から海岸までの間と、
駅から龍口寺までの間は、
ぶらぶら歩く人でいっぱいになる。
もともとこの区間には食堂とか
レストランなど食べるところが少なく、
観光客のくるところではなかった
のだが、
さいきんでは、イタリアンが2軒もできて、
立ち食いのジェラート屋も1軒できて、
つまらないそばやとか多国籍とかもできて、
多少は観光地風になった。
腰越の観光スポットの第一は義経の
「腰越状」で有名な満福寺で、
あとは海につきだした小動岬にある
小動神社と腰越海岸のシラス、
龍口寺と門前の上州屋の酒まんじゅうに
『鈴傳』と『高清』の干物ぐらいだろう。
ちなみに小動岬は「こゆるぎ・みさき」
と読む。
イタリアンはまだ試してないから、何とも
批評できない。ジェラート屋のジェラートも
まだだ。ここのエスプレッソはいい。
若い店主ががんばっている。
江ノ電が道路に飛び出してくる
まさに真ん前にジェラート屋は
ある。
それから鈴傳を通り越すと
隣りがイタリアンで、ここは
値段がちと高いが「美味しい」と
評判だ。
さらに電車通りを海へむかって
進むと赤いポストがある。
このあたりから鎌倉市になる。
その海寄りに古い写真館がある。
この写真館をあまく見てはいけない。
腰越の昔を知ろうと思い立った人は
この写真館が記録した古い写真を
見なければならない。
写真もさることながら、
この写真館の建物がじつにいい。
外観をじっくりながめてごらん。
こまかいところに昭和モダンの
美しい配慮が感じられるのだゼー。
(なぜか突然スギちゃん風になる)
この写真館をバックに
江ノ電が通り過ぎる写真を撮るのが
腰越の旅の記念として
いちばんいいと思うんだゼー。
新緑に燃える小動神社の奥の
せまい展望台から
五月の海を眺めてごらん。
白いヨットの群れと
三角の波がしらとが
紺碧の海面から
迫ってくるだろう。
春の小川はさらさら流る
春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやくごとく
高野辰之作詞、岡野貞一作曲の
童謡です。
戦後、歌詞が替えられました。
「さらさら流る」が「さらさらゆくよ」に。
それと、
「においめでたく」が「すがたやさしく」に。
さらに、
「咲けよ咲けよとささやくごとく」が
「咲いているねとささやきながら」に。
原作者にことわりもなく、
国民の間に定着している童謡の歌詞を
替えるというのは
どういう神経でしょうか。
この歌は
戦前から国民に愛されてきましたから、
戦後替えられた歌詞で習ったこどもとの
間に亀裂が生じてしまいました。
戦前に習った歌詞を
いまさら替えるわけには
いきません。
頭の中にがっちりと
定着していますから。
だれがかえたのでしょうか?
「さらさら流る」ならよくわかります。
「さらさらいくよ」とは何ですか。
川の水は流れるものであって、
「行く」ものではありません。
日本人で「川の水が行く」とか「行ってる」と
いう人がいるんでしょうか?
いるわけがない。
「においめでたく」には格調がありますが、
「すがたやさしく」ではなんの感動もありません。
「咲いているねとささやきながら」とは
なんという雑な言い方でしょう。
ひらたく言いたいのでしょうか。
ひらたすぎます。
どんな理由があるにせよ、
春の小川は
「さらさら流る」でなくては
いけないのです。
春の小川のほとりを
散歩するとき、
かならず
この歌を口ずさみます。
すると
少年の日の思い出が
爆発するように
つぎからつぎに
あたまに浮かんでくるのです。
せせらぎの音、
きらきら光る水面のさざなみ、
川の底でゆらゆら動く水藻、
すいすいと水面をうごくあめんぼう、
石の上でじっと空を見上げるカメ、
水のなかにはゲンゴロウ、タガメ、
ドジョウ、ヤゴが・・・
小川のほとりの水草・・・・
そして水面近くをギンヤンマが
すーいすーいと飛びまわります。
こどものころの思い出が
どっと噴き出てくるから
たまりません。
たのしくて、うれしくて
たまらなくなるのです。
「さらさらいくよ」では
こうはいきません。
なんの面白みもありません。
春の小川は
ぜったいに
「さらさら流る」
でなければなりません。









