昨日のNHK「日曜討論」でまたまたれいわ新選組の大石あきこ議員がやってくれましたね。
 

 


結果としてツイッターでも「日曜討論 大石あきこ 維新の賃上げ」がトレンドとなっていました。
いつもマスコミのプロパガンダに煮え湯を飲まされ続けている経世済民派としては溜飲が下がる思いです。

大石さんの「 #維新の賃上げは嘘です! 」という、コミカルにも感じられるフレーズはとても効果的でした。
なぜなら強力なワンフレーズの攻撃力にかなうものはないからです。

事実、敵対するネオリベ側の「官から民へ」「痛みを伴う改革」「決められない政治」「身を切る改革」「郵政民営化」「大阪都構想」「日本を取りもろす」などのフレーズは、誰でも、今でも覚えている強烈な印象を残すフレーズでした。

国民に広く訴えかけるためには、短くキャッチーなフレーズをバズらせなければなりません。
(他の立憲野党のように”夏休み前の全校集会での校長先生の説教みたいなフレーズ”ではダメです)


しかし我々が、週に一回あるかないかのテレビ出演で一喜一憂しているあいだに、敵方の #なにわのナチス こと維新は橋下・吉村・松井が年間300回もテレビ出演してデマをプロパガンダし続けています。
情報戦としてはアリとゾウの戦いくらいの差があります。

この情報戦に圧倒的劣勢であるから、ロンブー田村敦氏のような被害者を生み続けてしまうのです。

 


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さて、本記事では「維新はナチスなのか」を検証していきたいと思います。
以下のような着眼点で維新とナチスとの相違点を探っていきます。

目次 :

・ メディア支配

・ 新しい国家コーポラティズム

・ 生産性ヒエラルキーに基づくトリクルダウン論

・ 一院制と独裁志向
・ 左派(民主社会主義者や共産党)への敵対心

「維新はナチスなのか」。 結論から言うと、そうとも言えるし、そうでもないとも言えるでしょう。
というか、ナチスよりも醜悪なんじゃないかと思える部分もあるし、当然、ジェノサイドなどには至っていないという意味でマシな部分もある。

そして維新の場合はネオリベラリズムとファシズムの悪魔合体的な面があるので、分析があっちゃこっちゃに行ってしまうのでなかなかまとまらないという感じです。(フリードマンのシカゴボーイズが支配したチリのピノチェト独裁政権を調査する必要もあるかもしれません)


端的に表すなら、以下のような政治マトリクスに収まるでしょう。


 

 

出典:立命館大学・法学部 村上弘教授(2012年)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-4/murakami.pdf


以下はたぶんリベラル左派の言説ではあまり見られないと思われる、反緊縮派としての見解となります。

 

 

メディア支配 

上述したように維新幹部が年間約300回もテレビに出演できるのは、維新の大阪府政・市政下でマスメディアに利益を供与してきたからと考えられます。恫喝や圧力なども駆使してきましたのでアメとムチで飼いならしたとも言えます。

テレビ局側も放送法4条「政治的公平性」などおかまいなしで、維新の法律顧問で正真正銘の維新幹部である橋下氏を年間200回も重用するのは、まったく癒着が過ぎるでしょう。

 
維新と関西メディアの癒着

 
維新 橋下吉村松井 テレビ出演回数
上記画像2点の出所はあおむらさき氏


関西圏では維新の三人の誰かしらかが毎日のようにテレビに長時間出演してプロパガンダしています。
このメディアとの癒着、メディアを介したプロパガンダというのは、もちろんナチスの手法そのものです。
ゲッペルス以下ナチス宣伝相は新聞や映画、雑誌など全情報伝達手段の支配権を握り、ヒトラーもラジオで延々と演説を流していました。

問題は、体制を監視し批判すべき役どころのマスメディアが一切機能していないことで、維新の悪行でも何でもが放任状態になっていることです。

大阪はコロナ感染者率が全国断トツ一位でインドや欧米並み、自宅放置された死者も多数に上ったにも関わらず、テレビがそのことをスルーし、「吉村はんはようやっとる」と洗脳報道を垂れ流したことから、衆院選での維新支持率が、特に維新アゲの酷かった関テレの放映圏内だけ爆増したという世にも奇妙な現象が起こりました。

 
出所:みらい選挙プロジェクト はる氏

ヒトラーに関する複数の著書の記述で、「ヒトラーの芝居がかった自己演出が受け入れられたのは、ナチスが基盤にしたのがミュンヘンだったからである。北ドイツのベルリンと違って、南ドイツの市民は、大げさなことを好む気質だという」というような逸話がありますが、ミュンヘン≒大阪とすると怖くなりますよね。

 

 

 新しい国家コーポラティズム 

「国家コーポラティズム」とは、戦前戦中のイタリア・ムッソリーニ政権が採用した政治手法で、国家と企業が一体となって全体主義体制を構築するというファシズムの中核たるものです。

維新の場合は、市民の財産である公共施設や公務員職などを民営化(Privatization =私有化)、つまり民間に安価で売り飛ばすことでその利益共有構造を企業支配の道具として活用しています。
大阪の行政の窓口は、維新の経済顧問・竹中平蔵が会長を務めるパソナに侵略されてしまいましたし、上述したようにメディアにも公共施設という分け前を与えて癒着構造を作っています。
この支配構造を岸田の「新しい資本主義」にならって「新しい国家コーポラティズム」とでもしておきましょう笑
 
国家コーポラティズムの概念はだいぶ難しいのですが、前述したフリードマンのネオリベ政策を進めたチリを始めとするラテン・アメリカの権威主義的国家でも広く採用されていました。独裁者が近親者などの利害関係者を企業支配体制に重用してきた制度ともいえます。
アジア経済研究所の上谷直克氏の論文では、コーポラティズムは「国家によって認可,助成,監督される多様な社会集団が織り成す,非競合的な利益代表システムと捉えながら、新自由主義を推進したチリを「労働運動に熾烈な弾圧で対処した権威主義体制下でのコーポラティズム」とも定義しています。
維新とパソナ・オリックス・読売・フジらの癒着、また労働組合への攻撃が思い起こされますよね。
 
また、新アメリカ財団上級研究員のジョエル・コトキン氏は、癒着関係にある限られた企業がロビイングを介して政治に力を持つアメリカ型の「ステークホルダー」資本主義が、ムッソリーニの国家コーポラティズムに通じるものがあると書いています。
 
ベニート・ムッソリーニは、自らを伝統主義者ではなく、社会を変革する「革命家」であると考え、国家を「経済生活の動く中心」にしようと考えた。
彼は、イタリアの実業家をうまく利用して新しいインフラと軍隊を建設し、イタリアの歴史的に戦闘的で社会主義的な労働組合を撃退した。
企業の力は、ファシズムのイデオロギーにとって不可欠であり、その革命的目標を達成するために不可欠であった。
【中略】

すべての資本家が心底からファシストになったわけではないだろうが、ムッソリーニの言う "体制への形式的な忠誠 "が保たれたのである。

最も重要なことは、ファシストのコーポラティズムが、私的利益の自律性を否定することによって、"ステークホルダー資本主義 "や環境の "グレートリセット "といった今日の流行の理論と類似していることである。

企業・国家による専制政治の台頭|homme jian|note

ムッソリーニ時代のイタリアではこんなことが起こりました。
拙ブログ記事から引用します。

 

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1922年ムッソリーニ率いるァシスト党はクーデターを介し政権の座に就く。
20年代初頭は、ムソリーニ連立政権の財務大臣デ・ステファーニのもと、「リベリズモ(自由経済主義)」と言われるネオリベ的な緊縮財政がしかれた

自由貿易、構造改革、公務員削減、民営化が進められ、20年代後半には揺り戻しもあったが高インフレと混乱の中、29年の大恐慌になだれ込んだ。
政府支出対GDP比は、22年の17%から26年には12%まで落ちていた。

ムソリーニが一党独裁体制を確立するのは25年で、その後は「国家コーポラティズム」に傾倒していく。

リベリズモからの政策転換を図ったのはそのころ。アルベルト・ベネドゥーチェらに代表されるテクノクラートを重用し、国家コーポラティズムにより公共投資や産業の公営化を進めた。
アウストラーダはドイツのアウトバーンに先駆けた世界初の高速道路であった。
政府支出対GDP比は26年の12%から43年の42%にまで膨らみ、国家予算も倍増した。

【参考】 ▼右翼=ファシスト=レイシスト=反緊縮?? 2019-12-02 cargo

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ムッソリーニ政権はだいぶ右往左往していて、前期は新自由主義、中・後期の政策は社会主義・ケインズ主義にも似ていますが、利益相反関係にある企業との癒着だとか、気に入らない労働組合の排斥だとかという面では維新を彷彿とさせる部分も多くあります。
もちろん維新の公共政策の場合はその劣化版で、社会保障費やその他地域振興費などを削減し、アウストラーダの代わりにカジノや万博に突っ走るという歪な「パンとサーカス政策」に終始していますが。

そのムッソリーニの手法をお手本にしたナチスの場合も、全体主義体制のもと戦争経済を構築していきました。
その体制のもとIGファルベン、クルップ、フェスタク、ポルシェ、ダイムラー・ベンツ、ユンカースなどの企業がナチスに協力し、労働組合も都合よく再編されました。

そればかりでなく、ドイツの経済的困窮の原因を「ユダヤ人・共産主義者(社会主義者)・オーストリアやロシア、フランス」に求め、国民のルサンチマンを煽りました。
このことは既得権益とされた「公務員や社会的弱者・共産党や社会主義者・東京」を大阪の敵と設定し、「中央政府の政策のせいで、俺たちの税金が公務員や弱者に無駄に使われている」として大阪府民のルサンチマンを煽り倒す維新と相通じるものがあります。

 

ナチスが第一次大戦と世界恐慌による荒廃した時期に勃興し、維新の会がリーマンショック不況のあと2010年に結党されたことにも共通するものを感じます。
 

 

 生産性ヒエラルキーに基づくトリクルダウン論 

維新の弱者排斥の論理は、ナチスのような優生思想に基づくものではなく生産性至上主義に基づくものだと考えられます。

生産性の低い者は淘汰され、落伍者や弱者は税金で支えるのも無駄なので社会から排斥してしまおうという論理です。
逆に生産性の高い者を優遇すればビジネスを介しトリクルダウンが起こるとの愚論も設定されています。

ネオリベの教祖フリードマンも最低限の社会保障だけは残すという論理を組み立てましたが、維新の場合は最後のセイフティーネットたる生活保護でさえ縮小の圧力にさらされます。

維新の「弱者排斥」と「生産性至上主義」の思想は、まるで「T4作戦」でも始めんがばかリの様相だと指摘しておきます。

 


上記ツイにある野村氏は、橋下市長時代の市職員への思想調査を、弁護士として実行したアイヒマン的性格の人物でした。
彼はこの件で弁護士会に懲戒請求をかけられ実際に懲戒処分されました。高裁でも事件は違憲・違法判決となりましたが、それでも張本人である野村氏が平然とテレビに出られてしまう日本のナチズムの浸透にも恐怖を覚えます。

維新の「綱領・基本方針」に目をやると、バリバリの生産性至上主義であることがわかります。

 

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維新の「基本方針」
https://o-ishin.jp/about/outline/

3. 既得権益と闘う成長戦略
既得権益と闘う成長戦略により、産業構造の転換と労働市場の流動化を図る成長を阻害する要因を徹底的に排除しイノベーションを促進するとともに、衰退産業から成長産業への人材移動を支援する。

4. 小さな行政機構
政府の過剰な関与を見直し、自助、共助、公助の範囲と役割を明確にする。公助がもたらす既得権を排除し、政府は真の弱者支援に徹する。供給者サイドヘの税投入よりも消費者サイドヘの直接の税投入を重視する。
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「労働市場の流動化を図る」、「成長を阻害する要因を徹底的に排除する」、「公助がもたらす既得権を排除する」、また「政府は真の弱者支援に徹する」との文言からは、生産性の低い者に対する社会保障支援等を縮減する方針が容易に想起されます。
この綱領に恐怖を感じない人がいるでしょうか。
維新の本性を良く知らずに支持している人たちはよく考えてほしいです。

また、維新議員がよく口にする「分配の前に成長が必要」「成長無くして賃上げはできない」という論理は、マクロ経済の機構をまったく逆向きに捉えた誤った論理であることも付け加えますが、この点は大事なことなので後日こちらのシリーズにて改めてまとめることにします。
 

 

 

 一院制と独裁志向 

維新の「綱領・基本方針」の1丁目1番地には「首相公選制」「一院制」が謳われており、独裁的権限を集中させるための布石を敷くような記述が認められます。

 

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1. 統治機構改革
憲法を改正し、首相公選制一院制(衆参統合)、憲法裁判所を実現する。地方課題については地方自治体が国家の意思決定に関与できる新しい仕組みを創設する。
https://o-ishin.jp/about/outline/
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橋下氏は、参院廃止論の理由を「政治は物事を決められないというフラストレーションがある。一院制が望ましい」と説明していますが、ヒトラーの有名な自伝「我が闘争」を読んでもほとんど同じロジックで「独裁制」にすべきだと出てきます。

「我が闘争」を確認してみましょう。

 

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『我が闘争(抄訳)』
https://www.islam-radio.net/historia/hitler/mkampf/jap/

(社会民主主義者と労働組合に対して)「要するに彼等はあらゆるものを否定し、あらゆるものに反対することに依って、自分達の活る道があると思い込んでいるらしかった。」

【中略】
私は何が故に、多くの新聞紙の中から赤色新聞だけが素晴しい売行を示し、赤い書物のみが耽読せられ、赤色の集合のみが多くの聴衆を吸収し得るかと云う事情を始めて知ることが出来た。
即ち大衆は、何事に依らず弱い手段や半端な方法で導かれることを望んでいないのである。
丁度女が、弱虫の男を尻に敷くよりも、寧ろ強い男に服従するのを喜ぶように、極度に虐げられた大衆は、歎願者よりも、強力な指導者を愛するものであることをハッキリと知ることが出来たのだ。
大衆は開放的な自由を与えられることよりも、寧ろ敵を許さぬと云った風な強力な教導者の方へ、より大きな歓呼を浴びせるものである。

【中略】
私は独裁政治はいけないと信じていた。ことにハプスブルグ王家のあのような有様を見て、私は独裁がよしんばどんな形式であろうとも、自由と理性に対する罪悪だとのみ思い込んでいたのである。
【中略】
私は、それから以後殆んど毎日と云ってもいい程、議会へ通い始めた。
【中略】
約一年の後遂に一つの結論を得たのである。
【中略】
このオーストリアの議会を認めることが出来ないばかりでなく、すべての民主々義的議会に対して、最早価値を認める必要がない。
多数決による民主々義原理の研究に進み、民主々義理論の精神的道徳的な理論や性質をも研究した。その間に議会の駈引が如何なるものであるかをも充分に知ることが出来た。
結局この国の議会は、この国のみならず、人類をも死滅へ導く一つの兆候を持っていた。

【中略】
斯かる議会は、少なくとも自らの責任は自らの誠実に依って果そうとする人間にとっては、永遠なる不快であり憎悪である。権利と眞理とを用心深く避けて来たこの民主主義!
この発達を喜ぶのはただこの主義同様に不潔で不道徳なユダヤ人あるのみだ。
ドイツの民主主義は自己の責任、自己の行為を立派に果し抜く指導者を選出することに掛っている。
そこには多数者に依る支配などという臆病なものの存在は許されない。
自己の責任に対しては、自己の全体を以て之に当たる個人の支配があるのみである。

【中略】
人間の権力は、国家の権力の上に立つものである。人間なくして何の国家であるかだ。
面してこの人間の権力を剝脱しようとする議会制度を破壊する

【中略】
今迄のドイツ人運動者の頭に欠けていた。彼らは議会のみに依存し、議会に依ってのみ目的が貫徹出来るものと信じ切っていたのだ。
あの空虚な論壇(議会)に一体何が出来ると云うのだ。
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はい、完全に一致す。

ヒトラーの場合は、民主主義・社会主義者が議論ばかりして結論を出せない姿を見て独裁こそ最善策なりとの思い至ります。
これは現在、維新議員らから発せられる「野党は批判ばかり」の精神と同じです。話し合いは面倒なので熟議・民主主義を放棄しようという思いが橋下や維新にはあるのだと考えられます。

同様に独裁制を強める効果を持つ「議員定数削減(身を切る改革)」については立命館・村上教授の言葉を借りましょう。

 

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「議員を減らすと官僚依存になる」との批判に対して,橋下氏は,政治リーダーが専門家を行政幹部に政治任用する方式で対応すると言う(同新聞 8 月30日)。
首相等のリーダーに権力集中し,その意向に従う高級官僚やある意味での「御用学者」に立案させるという「大阪モデル」であり,野党を含む議会が多様な民意と専門知識を反映させて検討し,チームプレーで官僚をコントロールする必要はないという,「国会無用論」なのだ。
小さな政府機構と権力集中という橋下政治の理念が,ここでも典型的に表れている。(p.51)

立命館大学・法学部 村上弘教授 2012年 - 日本政治と「維新の会」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-4/murakami.pdf
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「身を切る改革」を掲げ議員定数削減を謳うのも、経費削減や小さな政府主義というお題目の反対側に、「少数意見を封じる」手口を講じたいという本音が見え隠れします。

しかも橋下は選挙を「白紙委任」だと、まるでヒトラーのように解釈しています。

 

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読売新聞の渡邉恒雄主筆が月刊誌「文藝春秋」誌上で、橋下市長の2月12日付朝日新聞インタビューでの、「選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんですよ」という発言に、「私が想起するのは、アドルフ・ヒトラーである」と懸念を示した。
ヒトラーが「全権委任法」を成立させ、「ファシズムの元凶となった」として、「これは非常に危険な兆候だと思う」「この点、はっきりと彼に説明を請うべきだろう」と指摘した。
ファクタ (2012年)
https://facta.co.jp/article/201205017.html
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維新橋下、ナチス・ヒトラーの攻撃対象も再度確認してみましょう。

 

 

 左派(民主社会主義者や共産党)への敵対心  

維新はやたらと左派(民主系・社民党・共産党)に罵詈雑言を浴びせかけます。
足立康史なんかは国会で犯罪者とかバカと罵っていました。
(そんな維新は、民主社会主義者の私にとってはクズ扱いですが)


この点もヒトラーとナチスそのものなので、再度「我が闘争」を確認してみましょう。

 

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『我が闘争(抄訳)』
https://www.islam-radio.net/historia/hitler/mkampf/jap/

今日の西欧の民主々義はマルクス主義の尖兵であつて、これなしにはマルクス主義は到底成功し得ない。しかもこのマルクス主義は狡猾なユダヤ人等に依つて運用されてゐる魔薬なのである。

【中略】
私は、社会民主主義の疑問が、一つの例外もなくユダヤ人を依って支配されていることを知った。

【中略】
尚遡れば、国会の議員にもこれがある。労働組合の幹部、各団体の議長、街頭デモの扇動者等、何れも約束したように、この狡猾な選民が乗っ取っていた。

【中略】
私は私の情熱を以て、如何にマルクス主義が世界破壊の怖るべき陰謀思想であるかを判らせようと思って、機会ある毎に、全く舌がこわばる程にまでこのことを説いたのである。

【中略】
彼等のマルクス主義こそは、自然の貴族的な本質を否定し、大衆と、数と量とのみを重んじて、権力と力とが持つ永久的な威力に対して全然反対の立場に立っている。
【中略】
こんな運動が成功した時のことを考えて見るがよい。宇宙には唯混沌のみがもたらされる。人類は滅亡する。
正にインターナショナルはある物を創造する主義や運動ではなく、一切の物を破壊しようとする、怖るべく且つ憎むべき思想であるに過ぎぬ。

【中略】
眞のドイツ民主主義は、断じてこんな胸糞の悪いものではない。
ドイツの民主主義は自己の責任、自己の行為を立派に果し抜く指導者を選出することに掛っている。
そこには多数者に依る支配などという臆病なものの存在は許されない。
自己の責任に対しては、自己の全体を以て之に当たる個人の支配があるのみである。
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ヒトラーは「アカ」「民主主義者」「民主社会主義者」「労働組合」「共産主義者」「マルクス主義者」の背後にユダヤ人がいるとして(実際そのような向きもあったが)、反ユダヤ主義に没頭していきます。
「ユダヤ人の社会主義者が、議会制民主主義を通じて国家を蝕んでいる。”決められる政治”(独裁)を阻んでいる」として排斥に向かったということです。
(*注: たまに民主主義と社会主義とを相対する概念のように対置させて認知する「冷戦脳」の人がいますが、それは違います。社会主義は民主主義の進化版と考えるとわかりやすいです)

維新の敵愾心は左派・社会主義にも向かいますが、その左派・社会主義を支持する生産性の低い者や社会的弱者、または彼らを支援する公務員や公共機構にも向かっています。

ヒトラーにとってのユダヤ人が、維新にとっての公務員や社会的弱者に置き替わっただけではないでしょうか。

◇◇◇◇◇◇◇

最後に、2012年に予言的な論文を書いた立命館大学・法学部教授の村上弘氏の結論部から引用します。
10年後の今、我が国の言論空間はどうなっていますかね?

 

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立命館大学・法学部教授の村上弘  2012年 -日本政治と「維新の会」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-4/murakami.pdf

変化が目指している政治理念,日本を変える方向性を,橋下氏自身や,マスコミ,研究者が明らかにする必要がある。
たとえば,善悪の判断は別にして,「小さな政府+効率主義」,「権力集中+リーダーシップの確立」と両論併記しても構わない。
そうしなければ,有権者は何もわからないまま,「日本を根本的に変えるらしい」「8つも目玉策があるぞ」「パワーのある新党だ」という,変化量への期待だけで重大な選択をせざるをえず,まさに衆愚政治の極致になってしまう。(p.3)

【中略】
大阪での経験から見ると,橋下氏は万一政権に就いたなら,マニフェストのなかに目立たぬよう書いた方針も,それ以外の隠された極端な方針も,徹底的に進める可能性がある。

もしマスコミが,維新の会自身が用いる「第3極」という美しい呼び名をそのまま使い,その政治的特徴(極端さ,競争原理,小さな政府,権力集中など)に触れない今の報道を続けるなら,それは「右派だと見せない右派」の維新の会にとって,大きな支援になるだろう。
また,共産,社民といった中道左派政党の印象をさらに弱める効果も伴う。
主要政党にも,維新の会の特徴を浮かび上がらせ,違いを宣伝し,また小政党が連携してアピールするような努力が不可欠だ。
(p.60)
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以上、結論は「ナチスと維新にはだいぶ多くの共通項が認められる」という感じになります。


本日も長文をご覧いただきありがとうございました。
ではまた次回!

cargo