1911年、後に社会党・機関紙の編集長として人気を博し首相にまで上り詰める青年は、反戦運動を指導した末、戦争遂行妨害の罪などで逮捕、投獄された。

法廷では裁判官にこう啖呵を切ったという。

 「私を無罪とするならばそれは私の喜びとするところだ。もし私を有罪とするならばそれは私の名誉とするところだ!」
http://www.warewaredan.com/f-nyumon3.html


ムッソリーニはバリバリの左翼活動家だった。

それどころか、20代の頃にスイスで、レーニン本人らからマルクス主義を学んでいるし、サンディカリストの始祖であるソレルの影響も受けていた。

純粋培養の左翼だ(笑)

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石垣議員に対する朴勝俊教授の20年代のナチや日本の緊縮財政に関するツイートを見ていて、思い出したのがムソリーニの経済政策だった。
今回改めて調べていて、知らなかったことがたくさんあったので、本ブログに書いてみようと思う。

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1914年、ハプスブルグ王朝との戦いをイタリアの宿命とする国家主義・民族主義者の主張を支持したムッソリーニは社会党を除名され、国家コーポラティズム(国家サンディカリズム=国家組合主義)に傾倒していく。
戦争の混乱を利用することで、労働者階級を解放することに繋げ、国際主義的にも社会主義を前進させられるとも主張した。
このころムッソリーニは主流派の社会主義に幻滅しており、後に「思想としての社会主義は既に死に絶え、悪意としての社会主義のみが残っていた」と回想している。

ムッソリーニによるファシズム運動は革新的であり、保守的でもあった。こうした古典的な分類に収まらない政治運動を右派・左派ではなく第三の道(今日的な意味での第三の道とは異なる)と呼称する動きが存在した。

 

10年代後半、イタリアでは共産主義に影響を受けた農民や労働者によるデモやスト、暴動が多発した。ムッソリーニらはそれを鎮圧した。結果として、初期のムッソリーニらの支持者には地主やブルジョワ層が多く集った。

22年、ムッソリーニ率いるファシスト党はクーデターを介し政権の座に就く。
初期のムッソリーニ内閣は国家ファシスト党を含めた国民ブロック、および中道右派の自由党・人民党、中道左派の社会民主党の連立政権であった。

20年代初頭は、ムソリーニ連立政権の財務大臣デ・ステファーニのもと、リベリズモ(自由経済主義)と言われるネオリベ緊縮財政がしかれた。

自由貿易や関税引き下げ、構造改革、公務員削減、民営化が進められ、20年代後半には揺り戻しもあったが高インフレと混乱の中、29年の大恐慌になだれ込んだ。

リベリズモにより政府支出対GDP比は、22年の17%から26年には12%まで落ちていた。



22年から連立政権の首相だったムソリーニが一党独裁体制を確立するのは25年だった。

リベリズモからの転換政策を図ったのはそのころ。
アルベルト・ベネドゥーチェらに代表されるテクノクラートを重用し、国家コーポラティズム体制(政府と企業の共同体主義、「新しい官僚制」とも呼ばれた)により公共投資や産業の公営化を進めた。
アウストラーダはドイツのアウトバーンに先駆けた世界初の高速道路であった。

26年には中央銀行制度も確立。インフレへの対抗策のため固定為替制を導入している。

 

29年の世界恐慌においては工業・農業の生産量が約3/4に減少、失業者も29年の30万から33年には130万人に激増した(35年には半減)。

より顕著なダメージは対外貿易額であり、最低を記録した34年には29年の約三分の一に落ちていた。

銀行救済には対GDP比で数%もの公金が充てられた。公的支出は28年から32年比で35%増加した。

 

結果として、大恐慌後の債務対GDP比は32年の5.5%から35年の9%に増加し、35年には産業復興公社(IRI)による全産業の保有株式は4割にも膨らんだ。
金融や重工業、通信、海運、エネルギー産業などにいたっては寡占状態となり、43年までには公務員数は数倍に、対社会保障公社への支出は4倍に激増した。

政府が買収した公社職員数は、21年の20万人から終戦時には59~85万人に増加した。


政府支出対GDP比は26年の12%から43年の42%にまで膨らみ、国家予算も倍増した。

ムッソリーニはケインズの経済学を「ファシスト経済学への有用な導入」と呼んで、イタリアの財政赤字を指数関数的に増加させた。22年に930億リラだった国家債務は、43年には4,600億リラに膨張している。

「1936年以後のイタリア国家は、ソ連を除くどのヨーロッパ国家よりも大きな割合の工業を所有していた」(後房雄、2019)という。


こうしたムソリーニの政策は戦前にはレーニンやチャーチル、ルーズヴェルトやガンジーら政治家、フロイトやストラヴィンスキーら文化人、教皇ピウス11世にも評価された。

イタリア・ファシスト体制における「新しい官僚制」の成立(四・完) 経済への国家介入の制度的枠組の再編:後房雄(愛知大学地域政策学部教授)
 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=27830&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1&page_id=28&block_id=27

 

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私たちのようなケインズ派が、上記のような経緯を聞くと、ネオリベ政策で荒廃したイタリア経済は、積極財政によってさぞかし成長したんだろうなと想像するだろうが、実際はそうでもなかったようだ。

1929年から1939年にかけて、イタリア経済は16%成長したが、これは、デ・ステファーニの自由主義時代の約半分の成長率であったのだ。

原因の分析は私が浅学であることもありだいぶ難しい。
ムソリーニは、単純にケインズ政策をしいたわけではなく、高インフレに対抗するためにデフレ政策(銀行の信用規制や商業の規制、また税収や公社からの税外収入を取り過ぎていた?)を講じ、また固定為替制・金本位制をとったことも経済不調の要因にもなったようだ。
「国際金融のトリレンマ」の原則からも、あまり良い結果をもたらさなかったと言えそうだ。

 

上の後房雄教授の論文を読む限り、第二次世界大戦後期にむかって事業税(所得税等)の税収が倍近く増えているのに、間接税(消費税など?)の税収が半減している。工業や資本家に有利に税率を変えたとのことだが、庶民が疲弊し企業が潤ったことを示すのかよくわからない。終戦にかけて激増している「特別支出」も気になる。

 

  *一人あたりGDPに顕著な伸びはないものの、労働人口一人当たりGDPは伸びている。生産性が増したということなのか戦争で労働者が減っただけなのかもしれない。

   ちなみにファシスト政権下の名目/実質GDPはIMFやOECD、マディソン教授のライブラリーにもデータは存在しない。理由は不明。

https://rtraba.files.wordpress.com/2015/11/italy-s-growth-decline.pdf

 

上図を見る限り、イタリアの成長率が上がったのは戦後だといえそうだ。日本も同様。

 

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とくに、ムッソリーニは戦争は不得意だったようで、殆ど思いつきで第二次世界大戦に参戦したと言われる。
(ニーチェの影響だとかナショナリズムの勃興だとか言われるが、あまり合理的理由は見当たらない)

大戦開始時には石油の備蓄が殆ど無く、まともに海軍を動かす事もできなかったというし、世界中にイタリア船籍の商船が散らばったまま参戦したので、イタリアの参戦と同時に殆どのイタリア船舶がイギリスに拿捕され、参戦と同時に輸送船団がほぼ壊滅するという杜撰な参戦だったという。
さらに、ロシアへ出向いたイタリア兵は、その1/3以上が捕虜となったり戦死したともいう。

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イタリア人の外交官ロマノ・ヴルピッタが書いた『ムッソリーニ』(中公叢書)から、しばし以下に引用する。

 人間行動における非合理的な側面を重視し、歴史を動かすのは力(暴力)であると見ていたパレートの主張はムッソリーニの感情的な革命主義に論理上の根拠を与え、後にファシズムの歴史観となった。また、彼はパレートの提唱するエリートの交代説に決定的な影響を受け、その結果、エリートが政治闘争の主役であるという確信は自分の思想の中核となった。従って、マルクス主義の階級闘争もエリートの交代として解釈されるようになった。
(ロマノ・ヴルピッタ著『ムッソリーニ』8ページ)

 社会主義者としてのムッソリーニの思想の特徴はマルクスとニーチェとの共存である。社会党時代に彼はすでにニーチェ的な人物と見なされていた。しかしニーチェ解釈にも、彼は独自性を発揮した。彼はニーチェの超人主義をエリートの精神的形成への道として理解し、「超人」が革命を指導し、大衆の精神的・知的水準を向上させる任務を「超人」に与えたのである。
(同書、10ページ)

 ムッソリーニは「超人」と「権力への意思」の観念から強い影響を受けているものの、その解釈に当たってパレートのエリート論とマッツィーニの人道主義を加味して、民族共同体に対し歴史から課せられた天命を自覚する少数エリートの特権として理解したのである。そして、この天命を果たすのに、力の行使も辞さない。エリートの権利の根拠が使命の意識であるというのは、ムッソリーニの思想の根本的な特徴である。
(同書、71ページ)

 ムッソリーニは「私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の深層から引き出しただけである」と述べている
(同書、322ページ)。

 ムッソリーニは、戦争が社会の変革を要求するとともに、勝利が国民の自尊心を回復したことをみごとに見抜き、二つの現象が不可分一体であることを新時代の特徴であると悟った。社会主義者でありながら参戦を提唱した時点で、彼は十九世紀を動かした二大思想、社会主義と民族主義を自分の行動のなかで合流させたのであった。戦争の経験で彼の政治感覚はさらに成熟し、今や彼が目指した社会革新は、階級の次元を越えて、民族的な次元に達していた。
(同書、106ページ)

 ファシスト政権が崩壊した一九四三年七月二十五日の時点で、政治的理由で自由制限措置の対象になっていたのは千八百二十四人であった。そのなかに懲役服務中は二十二人だけであった。(中略)当時、イタリアは戦時体制という非常事態であったことを考えると、この数字はファシスト政権による弾圧の甘さを証明する。ソ連やナチス・ドイツとでは比較にならない数字であるが、アメリカでも当時、日系、イタリア系、ドイツ系の市民は数万人が抑留されていた。
(同書、165ページ)

 一九二六年に発布された労働組合法で、協調組合国家の基礎が置かれた。業種別に編成された労働組合に自治権を含む法人格が承認され、とりわけ組合と経営者団体にそれぞれの業種全体に法的効力がある連帯労働契約を締結する権能が認められた。また労働裁判制度が導入され、賃金設定を含む全ての労働紛争について権限が与えられた。したがって、労働紛争の解決の手段としてストライキは禁止され、労働紛争も民事紛争と同じように国家の管轄のもとに置かれた。同時に、進歩的な社会保険制度も導入された。
(同書、167ページ)

 国益に叶うものとして自由企業体制は容認されたが、経済と生産を調整する国家の権利が主張され、社会義務としての労働の解釈の中で、生産は国家に対する企業の義務とされた。これで、経済活動の動機を利益追求とする市場経済の原理は否定された。なお、企業内の従業員の立場は、生産目的達成のための積極的な協力者として位置づけられ、経営者には企業指導権が認められた。
(同書、167ページ)
http://www.snsi.jp/tops/kouhouprint/1601


ムッソリーニの存在は、いろいろとファシストのイメージを裏切ってくれるだろう。

右翼かと思えばもともとは左翼であったり、緊縮財政に対抗して台頭したのかと思えば自分で緊縮していたり、典型的ファシストかと思えば強権的統制機構をしいていたわけではなかったり、積極財政によって人心を掌握したかと思えばあまり成功していなかったり、ヒトラーのような優生思想かと思えばただのエリート志向だったり…。

 (*1938年にムッソリーニ政権は「人種法」を制定し、ユダヤ人との結婚や公職に就くことを禁じた。しかしムッソリーニ自身の愛人はユダヤ人であったり、初期のファシスト党の支持者はブルジョア・ユダヤ人が多かった。何よりイタリアはその立地上スファラディム系ユダヤ人ともアシュケナージ系ユダヤ人とも人種的に近い。ムッソリーニ自身がユダヤ人を擁護する発言をするなど、国民にもまったく人気がなかったという。ナチスとの力関係上、人種法を形式的に導入したに過ぎなかったという見方が強い)

戦後の米ソのプロパガンダ合戦によって、私たちはいかに間違ったファシズム像を植え付けられていたのかと、改めて思い知る。

とにかく、何が言いたいのかっていうと、「右翼=ファシスト=レイシスト=反緊縮」という従来の戦勝国風リベラル史観的構図で洗脳されている人は、少なくともムッソリーニに関しては史実とはかけ離れているので考え直した方がよいってことになる。

 

参考:
▼ italy-s-growth-decline
https://rtraba.files.wordpress.com/2015/11/italy-s-growth-decline.pdf
▼ GGDC Historical National Accounts
https://www.rug.nl/ggdc/historicaldevelopment/na/
▼ Economy of Italy under fascism
https://en.wikipedia.org/wiki/Economy_of_Italy_under_fascism
▼ イタリア・ファシスト体制における「新しい官僚制」の成立(四・完) 経済への国家介入の制度的枠組の再編:後房雄(愛知大学地域政策学部教授)
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=27830&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1&page_id=28&block_id=27
▼ ファシズム期イタリアの政治システムの変容 ――ラス支配の終焉とドゥーチェ独裁の成立
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=7590&item_no=1&attribute_id=14&file_no=1&page_id=28&block_id=31
▼ ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』を読む。
http://www.snsi.jp/tops/kouhouprint/1601
▼ Benito Mussolini : ベニート・ムッソリーニ
http://teemakes.com/benito-mussolini/
 


本日はここまで。
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また次回。

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