杉原千畝「命のビザ」の真実は、真実か? その1
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杉原千畝「命のビザ」の真実は、真実か? その2
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杉原千畝の命のビザの件です。


①ウラジオストク.JPG


リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、2週間かけてウラジオストクに到着した。

次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。

「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」

    【現代語訳 = 日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】


しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

「避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」

    【現代語訳 = 逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います】
           1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信


②2013101022283384c.jpg
根井三郎

これら外務省本省とのやり取りは5回にも及び、ユダヤ人たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたったという。

杉原ビザを旅の途中でなくした22歳のユダヤ難民のために、根井は極寒の中、ソリで走り回ったという記録もあり、多くのユダヤ人が杉原と同じぐらい根井に感謝した。


ウラジオストク総領事代理であった根井三郎が、外務省の命に反抗してまで出航させたユダヤ人たちの命のバトンは、Japan Bureau ニューヨーク支店(現JTB)の社員大迫辰雄に引き継がれることとなる。

当時、JTBはアメリカユダヤ人協会の依頼により、シベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人難民たちに日本への連絡船を斡旋していた。

ユダヤ人を輸送したのは、「天草丸」という日露戦争で拿捕された元ロシアの客船で、この船に乗り込んでいたのがJTB社員の大迫辰雄だった。

ウラジオストクから敦賀までは、冬の日本海を4日間かけて横断しなければならず、波が高く大変な航海だった。

1940年(昭和15)年9月から翌41年6月までの約10ヵ月であり、二十数回、往復。

大迫は出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを担った。

手記には、ユダヤ難民の様子を「何となく元気なく、中にはうつろな目をした人もおり」と記している。

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敦賀

ユダヤ難民を迎えた敦賀では、一般市民がとまどいながらも手厚くもてなし、「ツルガという町は天国のようで、人々は皆、親切でした」という証言や資料がたくさん残されている。
街の銭湯「朝日湯」は、1日営業を休んでユダヤ難民たちを無料で風呂に入れたといわれる。

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船上の大迫氏とユダヤ難民

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大迫氏の遺品にあったユダヤ難民7人のポートレート

⑥f13e3777581b7f8c41c0cb7d5136b3cf.jpg
ユダヤ難民女性の写真の裏書き
「すてきな日本人へ、私の思い出」という意味のポーランド語


杉原が発行したビザの有効期間は10日間だった。

日本に上陸したユダヤ人は10日以内に次にどこの国に行くか決めて出国しなければならなかったが、実際に発給されたビザはリトアニアを脱出し逃走経路を確保するための「偽キュラソー・ビザ」であったため、日本国内で立ち往生する避難民も多数あった。

途方に暮れるユダヤ人たちが、ユダヤ協会の働きかけで日本滞在延長への協力を要請したのが、ユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三だった。

⑦小辻 images.jpg

小辻は快く引き受け、彼らと一緒に何度も外務省へ出向き、日本滞在の延長を許可してもらえるよう要請した。

しかし全く相手にされず困った小辻はついに外務大臣松岡洋右に直訴することにした。

小辻と松岡の間には、松岡が南満州鉄道の総裁をしていたとき、松岡自ら口説いて小辻を総裁室に所属させユダヤ研究をさせたという経緯があり、二人は旧知の間柄であった。

松岡自身はこの2年前、満州国とソ連との国境近くにあるオトポール駅での事件でユダヤ人救済に協力していた。

https://www.youtube.com/watch?v=ttGLrvr2VA4

松岡洋右 国際連盟脱退前の演説シーン 1933年


小辻に相談された松岡は立場上、規則を曲げることはしなかったが、『ある抜け道』を示唆した。

「ビザ延長を決める権限は神戸の自治体にある。もし君が自治体を動かすことができれば、外務省は見て見ぬふりをすることを約束する」



この言葉を受け小辻は、小辻は資産家の義兄に30万円を融通してもらい、外国人の滞在許可を発行する警察署の幹部を神戸一の料亭で接待し、滞在許可の延長を訴えた。

警察幹部は小辻の要請を受け入れ、一回の申請で15日間の延長を許可することにした。

申請は無制限にできるので、回数を重ねれば長期滞在も可能となった。

こうして出国までの時間的猶予を与えられたユダヤ人たちは、日本人から温かい飲み物や食べ物をふるまわれるなど手厚いもてなしを受けた後、アメリカ、イスラエル、香港、上海などへと安住の地を求め旅立った。

リトアニアの杉原千畝から始まった命のリレーは、ウラジオストクの根井三郎を経由して、ジャパンツーリストビューロの大迫辰雄へと繋がり、ユダヤ教学者の小辻節三へとバトンが渡されたのだった。


昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、
1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。
敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。
      原典『決断・命のビザ』p.295. 渡辺 勝正, 杉原 幸子著 



松岡洋右外務大臣は、杉原領事が外務省の命令に背いてユダヤ人にビザを発行したことを知っていた。
しかし、彼はユダヤ人の入国やビザ延長の許可が表向き敦賀という地方の税関の権限でなされたことにし、中央はそれについて連絡を受けていなかったことにするよう指示した。
      原典: 「Fugu plan」  マービン・トケイヤー師 著


2.26事件の後、急速に軍事国家化がすすみ、日本にいる外国人は常に特高の尋問にさらされる危険にあった。
 
ユダヤ人難民も些細なことで逮捕されてしまったり、大小のトラブルが絶え間なく起こっていた。
そのたびに小辻は奔走して、一方では船会社と交渉をもち、ほとんどの難民をアメリカに亡命させる。

しかし小辻の人道主義に基づく一連の行動は目をつけられ、何度も特高や憲兵隊から尋問されることとなり、ついには1944年に逮捕され、凄惨な拷問を受けることとなる。

家族にすら危険及ぶ懸念を感じた小辻は、1945年6月7日、家族とともに海を渡り、満州のユダヤ移民たちのもとに身を寄せた。

小辻を受け入れたのは、日本政府の施行した河豚計画で救われたユダヤ人たちだった。


「上海の柴田領事は生命の危険をおかしてゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。
関東軍の東條英機参謀長は満州のユダヤ人を穏健に処遇するよう指令を発したし、アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善をはかった。

ぎりぎりの状況のなかでユダヤ人を救おうとした外交官もたくさんいた。日本船の船長は収容能力をこえてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこれをはねつけた。」
      原典:『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』
       ハインツ・E・マウル(ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校)著(芙蓉書房出版)


「米国ユダヤ人会議」の議長で、ハルビンの「極東ユダヤ人会議」議長補佐のスティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であったともいう。

ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。

1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。


「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました。」


この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。

安江仙弘は「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けている。

そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。

日米開戦の翌春になると『猶太対策要綱』は公式に廃止された。

「大東亜戦争勃発」によりユダヤ人利用による「外資導入」と「対米関係打開ノ必要」がなった為と、盟邦ドイツが,一月一日海外在住ユダヤ人の「獨逸國籍ヲ剥奪」したためだともいう。

⑧ルーマニアsuguhara_tiune_002.jpg


1940年9月3日リトアニア領事館閉鎖でリトアニアを退去した杉原は、ドイツ領プラハでの総領事代理赴任を命じられ、1941年12月までドイツ勤務に就く。 

しかし内偵を続けていたドイツ諜報部は、杉原がポーランド情報機関ならびに地下組織と協力関係にあったことをつかみ、日本外務省に杉原を召還することを要請された。

ドイツ退去を命じられた杉原は、ルーマニアのブカレスト勤務となる。

1945年8月17日、日本が降伏した2日後、ブカレストの公使館で杉原は家族と一緒にソ連に拘束される。 

当初はブカレストの捕虜収容所に収容されるが、その後オデッサ、ナホトカなどソ連の強制収容所を転々とさせられて苛酷な日々を送る事となった。


⑨雪原に残る強制収容所ラーゲリ跡 stalinhouse.jpg
雪原に残る「強制収容所(ラーゲリ)」跡 ソ連


杉原は、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を叙勲されているが、杉原一家が日本に帰国できたのは、1947年4月だった。


杉原のビザで入国したユダヤ人達を救った外務大臣松岡洋右は、杉原帰国の一年前1946年6月27日にA級戦犯として訴追されたまま獄死していた。









杉原知畝副領事は1940年(昭和15年)のカウナス領事館引き揚げの後も7年間にわたり外務省で勤務を継続し、1947年(昭和22年)6月7日に依願退職している。

外務省において保管されている文書により確認できる範囲では、杉原副領事に対して懲戒処分が行われたとの事実はないとされているが、一説にはビザを発給するに当たって、ユダヤ人から現金等を受け取っていたという噂を当時の外務省が信じたため懲戒解雇されたともいわれている。

しかし杉原が退職、もしくは解雇された1947年当時の日本は、GHQによる為政下であったことも忘れてはならない。

戦後、1946年(昭和21年)1月4日から1948年5月にかけて、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された、いわゆる「公職追放」によって20万人の政府関係者が追放されている。



外務省退職後、杉原は語学が堪能であったことが幸いし、連合国軍の東京PX(進駐軍向けの商店)で日本総支配人としての職を得る。

その後いくつかの職を転々とした後、1960年には川上貿易のモスクワ事務所長として、再びヨーロッパの地に舞い戻ることとなった。


1968年(昭和43年)8月のある日、ソ連との貿易の仕事の間に一時帰国していた杉原の元に、イスラエル大使館から一本の電話がかかってきた。

特に心当たりもなく不思議に思う杉原だったが、兎にも角にも大使館に赴き、一人の参事官と面会する。

その参事官は杉原に会うなり「私のことを覚えていますか?」と聞いてきたが、記憶に無い人物であったため「申し訳ありませんが・・・」と答えると、その参事官はボロボロになった一枚の紙切れを杉原に差し出した。

それこそがまさに杉原が発給し、多くのユダヤ人を救った「命のビザ」であった。

そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。

「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません。

28年間あなたのことを探していました。

やっと、やっと会えました”Sempo Sugihara”」

彼は涙ながらにそう杉原に告げた。

この参事官こそ、カウナスでユダヤ人代表の一人として、ビザの発給について杉原と交渉を行ったニシェリだった。

実に28年ぶりの再会である。


1940年当時、外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ(知畝の音読)」と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。

しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリとユダヤ人たちは千畝を探し出すことができた。


この年、杉原の四男伸生がイスラエルのヘブライ大学に公費留学生として迎えられた。

これは杉原の恩に報いるため、イスラエル政府が招聘したものであった。

翌1969年(昭和44年)、杉原自身もイスラエルに招待された。

出迎えたのは宗教大臣のゾラフ・バルハフティク。

彼もまたカウナスでビザ発行の交渉を杉原と行い、「命のビザ」によって命を救われたユダヤ人の一人だった。



日本国内でユダヤ人難民を救うべく奔走していた小辻節三は、満州に移った後、ユダヤ教に改宗している。

1973年10月31日、小辻は「エルサレムで眠りたい」と遺言を残し息を引き取った。

第四次中東戦争のさなか、ゾラフ・バルハフティク大臣は小辻の遺体を空港で出迎え、エルサレムの墓地に埋葬した。

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1971年、杉原はモスクワには単身で赴任し、以降15年もの長期に及ぶ海外駐在員生活を過ごした後、1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。


後日バルハフティクは、杉原が独自裁量をもってビザ発行していたことが原因となり、外交官としてのキャリアを絶たれたことを聞かされる。

実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。
杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。

杉原氏の免官は疑問である。
日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。
賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。
杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。
しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。
       原典:バルハフティク(1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー)



ユダヤ人たちは杉浦の恩に報いるためヤド・ヴァシェム(ナチスの犠牲者追悼のための国立記念館)に杉原の名前を飾り、「諸国民の中の正義の人」の称号を贈ってその功績を讃えた。

「諸国民の中の正義の人」とは、ナチスによるホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表すイスラエルで最も名誉ある称号であり、杉原はこの賞を授与された唯一の日本人であった。

また、ゴールデン・プレート(ユダヤ民族で世界に偉大なる貢献をした人物、もしくはユダヤ人が忘れてならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)にも、モーゼやメンデルスゾーン、アインシュタインといった錚々たる偉人たちと並んで杉原の名が刻み込まれている。

⑪杉原切手middle_1229163559.jpg

⑫杉原切手55_CSUGIisl.jpg



2000年10月10日、外務次官だった鈴木宗夫の働きかけによって 河野洋平外務大臣による名誉回復がなされた。

「杉原さん自身は訓令に違反して外務省をクビになったという認識だった」と遺族から聞いている。

問題は外務省だった。当時の佐藤嘉恭官房長に、杉原さんの名誉回復を言ったら、「名誉回復は必要ないんです」と言った。

当時、日本は戦争に負け、外務省も職員の3分の1をリストラした。

その一環で杉原さんは外務省を辞めたと。
     
「杉原さんが何か責任を取ってクビになったということではない」ので、そっとしておくのが一番ですよと。
       原典: 鈴木宗夫 2014年インタビュー




これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。

私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
        原典: 2000年10月10日の外務大臣河野洋平による演説








★ 結論 :

論点① 千畝は、本当に日本政府の意向に逆らってまで「命のビザ」を発行していたのか?

A: 杉原千畝は、本当に日本政府の意向に逆らってまで「命のビザ」を発行していた可能性が高い
  しかしその内実は、以下の3つパターンが存在した
  ①政府の意向に沿ったものを発行していた 
  ②政府の意向に沿わないものに関しては、杉原が外務省の返答を待たず無知を装い発行。外務省も事実上黙認していた可能性がある
  ③政府は、政府の意向に沿わないものの入国を断った事例もあるが、松岡洋右外相をはじめ人道支援を尽くした例も多数ある



論点② 千畝は、独自裁量によって行った「命のビザ」のせいで、戦後に外務省から解雇されていたのか?

A: 独自裁量によるビザ発行が理由で、外務省に事実上解雇されていたかは不明
   当時ノンキャリア組のほとんどが退職を強いられていたので、「肩たたき」のような暗黙の空気があったかもしれない
   明確に懲戒解雇されたと証言している当事者は杉原夫人のみ
   杉原自身、もしくは遺族の被害妄想であった可能性もある



今回杉浦千畝氏のことを調べていて感じたのが、ほとんどのサイトや資料が右か左どちらかに寄っているということ。

そして不確定事項も多いので、どの話が事実なのかわからないことも多いということ。

しかし、前提事項として、1945年以降のこの世界においては、ユダヤを利するプロパガンダは許されても、大日本帝国やナチを利するプロパガンダは許されないという実情があることは確かで、特に左派側は杉原知畝をめぐる物語を、やたらと感動的なストーリーに脚色する傾向にあり、それが主流学派のテンプレと化している状況でもあります。


現在上映中の映画も、どちらかに寄って(おそらく左側に)いるんじゃないでしょうか。

それを確認するのは楽しみですが、とにかく右も左もイデオロギーのために利用しないでほしいなぁと思います。


杉原千畝はもちろんのこと、日本政府をはじめ、多くの日本人がユダヤ難民を救うことに尽力したことは事実なのですから。





【参考サイト】
■外務省 よくある質問集:欧州 : 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/area/europe.html
■Wiki 杉原千畝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
■杉原千畝の人道的ビザ
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/sugihara.htm
■奇跡のビザ~あなたは杉原千畝を知っていますか~
http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/coffee_sugihara.html
■捏造される杉原千畝像 歴史修正主義者による戦争犯罪のゼロサム・ゲーム: 上智大学講師・松浦寛
http://www.linelabo.com/chiu0009.htm
■正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その1
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito1.htm
■流刑地シベリアをめぐる壮大な悲劇[橘玲の世界投資見聞録]: ダイアモンド
http://diamond.jp/articles/-/40602?page=2
■「日本のシンドラー」から引き継がれた命のバトン(その1.根井三郎)
http://action-now.jp/archives/3320
■「杉原ビザ」で助かったユダヤ難民の顔写真発見 元JTB職員の遺品から: 中日新聞
http://blog.goo.ne.jp/aran1104/e/2e94cd36fce85883f2465bd6bc9f23dc
■命のバトン 杉原千畝→根井三郎→小辻節三
http://ameblo.jp/talk226/entry-12086331991.html
■  国際派日本人養成講座  命のビザ  -6千人のユダヤ人を救った日本人外交官-
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog021.html
■Passage to Freedom: The Sugihara Story by Ken Mochizuki
http://www.amazon.com/dp/1584301570/ref=cm_sw_r_tw_dp_1aFjwb1H9M5EN%20@amazon
■歴史街道 杉原千畝(ちうね)とサムライたち  :PHP出版
http://teccyan88.blog100.fc2.com/blog-entry-853.html
■近衛文麿の戦争責任(久野氏の軍事史学会での発表レジメに対する木庵の反応(その9))#25
http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/38900039.html
■名誉回復に44年間かかった「日本のシンドラー」杉原千畝
http://www.nippon.com/ja/people/e00080/
■ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(11)感動の再会
http://action-now.jp/archives/4290
■Wikipedia 公職追放
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE