杉原知畝 3032.jpg
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito1.htm

どうも。

本日は「杉原千畝」さんのことをレトロスペクティブしてみたいと思います。

杉原千畝氏といえば、第二次世界大戦中に迫害されたユダヤ人亡命者の6000人の命を救い、”日本のシンドラー”とも称される偉人と位置づけられています。

特に近頃は、杉原千畝氏の「命のビザ」 がユネスコ記憶遺産の候補になり、さらにその盛り上がりを受けて、”真実の物語”と題する映画まで制作され公開に至ることともなったようで、メディアを介していろんなインフォメーションが飛び交っています。


この杉原千畝氏の「命のビザ」 をめぐるスト-リーは、本当にどこまでが”真実の物語”なのでしょうか?

先日、中国がユネスコ記憶遺産に登録成功した南京虐殺のように、”諸説ありすぎる”ものなのでしょうか?

あまりに気になったので、少し詳しく調べてしまいました。


おそらく、教科書的なもの/マスメディア/左派による史観は、普段我々が目にしているとおりのものになるでしょうか。

その手のストーリーは「大日本帝国の方針に反し、ユダヤ人亡命希望者に対し独自の裁量でビザを発行し、決死の覚悟をもってアメリカまでの逃走経路を確保した。そのため戦後に外務省を解雇されてしまった」というシナリオです。


■杉原千畝の人道的ビザ
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/miyamoto/sugihara.htm

1986年7月に死ぬその1年ほど前、千畝は鎌倉の自宅に訪ねてきた客と話をしていた。

「あなたは私の動機を知りたいという。 
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。

目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。避難民には老人も女もいた。
絶望のあまり、私の靴に口づけする人もいた。そう、そんな光景をわが目で見た。

そして当時、日本政府は、一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人はただ興奮しているだけだった。

本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。しかし、私自身、これが正しいことだと考えた。
多くの人の命を救って、何が悪いのか。 もし、その行為を悪というなら、そういう人の心に邪なものが宿っているからだ。

人間性の精神、慈悲の心、隣人愛、そういった動機で、私は困難な状況に、あえて立ち向かっていった。そんな動機だったからこそ勇気百倍で前進できた」



上記は、とても感動的なものですが、晩年に杉原が口述したものを伝聞により記述したものであり、事実かどうかは不明です。

とくに右派を中心とした勢力は「杉原知畝英雄説、なんかおかしくね?」と言っている状況であります。

この命のビザをめぐる論争が単純なウヨサヨのイデオロギー合戦であれば、その構造を理解しやすいのですが、左派側にも異論を唱える論客がいるので、単純ではないようだと感じます。

その代表格が、元レバノン大使で護憲派の天木直人氏ですが、政治スタンス的にも元外務省情報局長の孫先享氏なんかと同様に、左派と位置づけられる人物で、彼は以下のように言及しています。


■杉原千畝が書き残していたユダヤ人ビザ発給の本当の理由  天木直人(新党憲法9条)
http://www.asyura2.com/15/senkyo197/msg/496.html

【抜粋・要約】
「外交官杉原千畝の功績をたたえる言葉やドラマが話題になるたびに、私は複雑な思いを抱く。
その人道的行為は称賛に値する一方で、シオニズムによる情報操作のなせるわざだということを知っているからだ」

「杉原千畝の関連資料について、以下のような杉原千畝氏の孫・杉原まどかさんのインタビューを見つけた。

”・・・外務省公電など計20点の登録申請物件の中に、杉原家にある祖父の自筆手記2点が含
まれています。
祖父は78年に書いた手記の中で、『全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、(中略)ビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか』と、ビザの発給にいたった心情を打ち明けています・・・”

これは人道的見地からの発給だっただけではなく、ユダヤ人の報復をおそれて発給した事を、自らの手記で認めていたということだ」



しかし、上記直筆手記文章には前後があります。


最初の訓令を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
訓令を文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の訓令通り、ビザ
拒否の道を選んだだろう。
それは何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、訓令を受けた日、一晩中考えた。

・・・果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してかまわないのか。それが果たして、国益に叶うことだというのか。

苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何を恐れることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。
            原典:決断・命のビザ: 渡辺 勝正, 杉原 幸子


もちろん上記は戦後に語った手記ですので、杉原自身が話を盛る形で創作したという可能性もあります。

天木さんの言うように「ユダヤ人の報復をおそれて発給」したという理由もあるのでしょうが、当手記を見る限り、どちらかというと「人道的見地からの発給」であった、もしくは建前上そのように振舞った、という解釈が成り立つように思えます。


どうやら、「杉原千畝の”命のビザ”」は、我々がメディアから享受するような単純なストーリーではないようです。

杉原千畝の”命のビザ”の真実は、ほんとうに真実なのでしょうか?


いったん議論の論点をまとめておく必要があります。

左派 : 杉原千畝英雄説    
  → 大日本帝国はユダヤ差別をし、杉原にも圧力を加えた。戦後は解雇もした

右派 : 杉原千畝英雄懐疑説 
  → 外務省の許可なくビザ発行はできない。 人道的措置を行った日本政府も英雄だ




論点① 千畝は、本当に日本政府の意向に逆らってまで「命のビザ」を発行していたのか?
 
論点② 千畝は、独自裁量によって行った「命のビザ」のせいで、戦後に外務省から解雇されていたのか?




【 前段 背景 】

千畝が外交官として欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることが懸念されていた。

1938年12月6日、近衛文麿の最高首脳会議である五相会議でユダヤ人の対策方針(猶太人対策要綱)が決定された。


■(出典) WIKI 猶太人対策要綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%B6%E5%A4%AA%E4%BA%BA%E5%AF%BE%E7%AD%96%E8%A6%81%E7%B6%B1

    ○猶太人対策要綱  
     
昭和十三年十二月六日附 五相会議決定
独伊両国ト親善関係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝国外交ノ枢軸タルヲ以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝国ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ之ヲ独国ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ唯ニ帝国ノ多年主張シ来レル人種平等ノ精神ニ合致セサルノミナラス現ニ帝国ノ直面セル非常時局ニ於テ戦争ノ遂行特ニ経済建設上外資ヲ導入スル必要ト対米関係ノ悪化スルコトヲ避クヘキ観点ヨリ不利ナル結果ヲ招来スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之ヲ取扱フモノトス

    ○方針
一、現在日、満、支ニ居住スル猶太人ニ対シテハ他国人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ

二 新ニ日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ対シテ一般ニ外国人入国取締規則ノ範囲内ニ於テ公正ニ処置ス

三、猶太人ヲ積極的ニ日、満、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、但シ資本家、技術家ノ如キ特ニ利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス
  
 【ブログ筆者要約】
ドイツ・イタリアと良好な関係を築くため、独伊に排斥されたユダヤ人を積極的に擁護することは避けるべきだが、ドイツのような極端な排斥は、日本の人種平等の精神と合致しないばかりか、外資導入の面や対米関係が悪化するおそれがあるので、慎重に扱うべきだ。
現在日中満にいるユダヤ人は排斥せずに公正に扱いなさい。新たに入国するものは入国取締規則に則って公正に。
ユダヤ人を日本に積極的に招致することは避けるべきだが、資本家や技術者等はこの限りでは
ない。


山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。 その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものでした。


■(出典) Wiki 杉原千畝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D

「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」

  【現代語訳=貴殿(山路総領事)が発信した第39号(請訓電報)に関し、陸海軍及び内務各省と協議の結果、「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者をわが国に受け入れることは、大局上よろしくないのみならず、現在事変(日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民を収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民(外部に対しては単に『避難民』の名義とすること。実際はユダヤ人避難民を意味する。)のわが国内地(本土)ならびに各植民地への入国は好ましくない。(ただし、通過はこの限りでない。)」とすることで意見が一致した。】
   - 近衛外務大臣から在外公館長への訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件
         (1938年 昭和13年10月7日付)

 上記内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである。


Wikiには上記のように「ユダヤ人差別を指示する二重外交」と記述していますが、この解釈は正しいのでしょうか? 
同盟国となるドイツの批判をかわすために、政府はユダヤ人と明記せず、単に”避難民”とし衝突の回避を図った可能性もあるのではないでしょうか?

右派による、五相会議における「猶太人対策要綱」をめぐる解釈は、おおむね「日本は人種差別撤廃の理由からユダヤ人差別をしないことを決定した」というようなものです。


1940年(昭和15年)12月31日、外務大臣・松岡洋右は、ユダヤ人実業家に対し以下のように語っています。


■(出典) 国際派日本人養成講座 届かなかった手紙    ~あるユダヤ人から杉原千畝へ~
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog138.html

当時の外相、杉原の直接の上司だった松岡洋右はこう言っていた。

「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。
しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった
これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である。」

    原典; 「千畝」ヒレル・レビン著、清水書院[,p171]


以上が、1940年以前の日本と欧州、ユダヤをめぐる背景ということになります。


次に、杉原千畝の「命のビザ」に関する、右派の研究者達の論理を整理してみたいと思います。


【参考サイト】
■杉原千畝神話の虚実  憲法無効の会
http://oira.sumera-ikusa.com/index.php?%BF%F9%B8%B6%C0%E9%C0%A6%BF%C0%CF%C3%A4%CE%B5%F5%BC%C2

■馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)、渡辺昇一(ミュンスター大学名誉博士)対談
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/35141996.html

■杉原千畝領事とユダヤ人救出
http://www3.plala.or.jp/tkyokinken/jew.htm

   【上記サイトから抜粋・要約】

   ①ノンキャリア組である三等書記官(小国リトアニアの領事官代理)が、外務省の訓令に背くかたちで、ビザ発給権限を有していたはずがない

   ②日本政府がユダヤ人のビザ発給自体を禁止していたという事実はない

   ③日本入国ためには入国管理局で審査の必要あるので、日本国政府の承認がないと入国は不可能

   ④シベリア鉄道に乗り長距離道程を経て、ウラジオストック、日本を経由して北南米に亡命する予定だったが、その最終目的地である北南米の入国許可ヴィザがない者に通過ビザが発給されないのは国際的に当たり前だった

   ⑤ 杉原氏の通過ビザ発給は、あくまでも外務省の指示に従った日本公使館の日常業務。 
    ビザ発給で助かったユダヤ人もいれば、ビザ発給されなかったユダヤ人もいた(逆に杉原副領事は、日本帝国政府が要求する条件を満たさない者を日本に渡航させてはならない、と意見を具申していた)

   ⑥当時日本の管轄下にあった上海のユダヤ人居留地区の人口は25000人。
    杉原の6000人分のビザ以上の人数が居留しており、欧州の他の日本領事館からもビザが発行されていた証左となる

   ⑦戦後に杉原氏が外務省を退職したのは、政府による懲罰行為ではなく占領下における通常業務であった。(被占領国は外交権を失っており、外務官は必要ないため1/3の外交官がリストラ) 
また退職金も支払われ、年金も受給しているばかりか、1944年に勲五等の叙勲を受けている


杉原千畝氏の通過ヴィザ発給が日本帝国政府=外務省の訓令に違反する行動ではなかった。

杉原氏を含めた欧州駐在の日本外交官たちが、通過ヴィザ発給の前提条件を厳守しながら発給事
務に携わった。

上記の意味では、杉原氏の発給したヴィザは、確かに「命のヴィザ」だった。

しかし、その偉業は決して杉原千畝氏個人のものではない。

政治的迫害によって進退に窮したユダヤ人避難民に通過ヴィザを発給し、日本を経由して第三国に亡命させることを決断した日本帝国政府、外務省の偉業であることを忘れてはならない。


以上が、杉原千畝の「命のビザ」に関する、右派の懐疑論の要約になります。


しかし、この右派による懐疑論もはたして正しいのでしょうか?


左派の論客である上智大学の松浦氏は以下のように記しています。


   ■捏造される杉原千畝像   上智大学講師・松浦寛
   http://www.linelabo.com/chiu0009.htm

渡辺勝正:杉原千畝の悲劇(大正出版)*には、外務省の方針に逆らった非エリートの杉原は外務省として許せなかった。
クビにしたのは自分だと名乗った人物の名を堺屋太一、加藤寛、渡部昇一の対談で明らかにしている。(曽野明*)

『千畝』の原著者ヒレル・レビン
「共同調査」者だと自ら名乗り出ている人物がいるのだ。そして,その共同調査者こそ,他ならぬ『サピオ』誌ユダヤ特集の企画者,藤原宣夫である。
「つくる会」と似通った歴史見直しの主張を掲げ,しばしば会員の重複している団体に「日本会議」がある。
藤原は,「杉原千畝は反政府の英雄にあらず」と題されたインタビューを「日本会議」機関誌『日本の息吹』(一九九九年九月号)上で受けている。副題も,「反日から親日へ―ユダヤ人を動かす歴史の真実」という分かりやすいものだ。


そこで、右派の懐疑論も踏まえたうえで、左派もしくは中立派の研究も加味し、次回ポストに杉原知畝の命のビザのストーリーをまとめました。

なかなかドラマチックですよ。
(*私は研究者じゃないので、事実と異なる部分も記述してしまっているかもしれませんが、なるべく左右双方の主張に齟齬がないようまとめました)


*次回に続く

杉原千畝「命のビザ」の真実は、真実か? その1
http://ameblo.jp/cargoofficial/entry-12108324032.html
杉原千畝「命のビザ」の真実は、真実か? その2
http://ameblo.jp/cargoofficial/entry-12108514725.html
杉原千畝「命のビザ」の真実は、真実か? その3
http://ameblo.jp/cargoofficial/entry-12108812243.html