命のバトン 杉原千畝→根井三郎→小辻節三 | 2.26事件を語ろう

2.26事件を語ろう

226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

 


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 杉原千畝のつづきを少し。
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 彼がビザをもったユダヤ難民たちはシベリア鉄道でウラジオストクまで来て、ここから船で日本の福井県敦賀へ入国することを希望していました。
 外務省はウラジオストクの日本領事館に、難民たちの渡航を許可しない通達をだしていたのです。が、これを突っぱねたのが、ウラジオストク駐在総領事代表を務める根井三郎でした。敦賀港への船は月3便。ソ連の秘密警察の目もあり、難民たちは気をぬけず、根井が誠実に対応したのです。

 この根井三郎も杉原千畝と同じ外務省の留学生試験を受けて合格し、同じハルビン学院でロシア語を学んだ、千畝の3年後輩にあたります。ハルビン学院の創立者である後藤新平は「自治三決」をモットーとし、杉原も根井もそれを忠実に実行に移したのです。
 
 自治三決→人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めないように

 根井が外務省とやりあった電報は今も外交史料館に残されています。
 電文の相手は外務大臣の松岡洋祐や首相の近衛文麿になっていて、まさか本人が対応したわけはありません。3月から4月にかけて、松岡外相はシベリア鉄道でドイツやイタリアやソ連を旅していたのです。根井とやりあったの
は誰なのか、担当者の名前は今となってはわかりません。名のりでる者もいないでしょう。
 ちょうど松岡外務大臣がドイツと同盟を結ぶために動いていた大切な時期ともだぶっています。ベルリンにいるドイツ大使の来栖三郎はドイツとの同盟に大反対していたので、松岡は来栖には知らさずにスターマーを千駄ヶ谷の自宅に招き、画策していたのです。
 実はそれよりも前、1938年にオトポール事件というのがありました。ドイツで迫害され、満州国に逃げてきたユダヤ難民たちをハルビン特務機関の樋口季一郎が受け入れたところ、ドイツの外相リッペンドロップが猛抗議してきたのです。このシャンパン商人あがりの外交官はヒトラーの信頼を得るためになんでもやってのけ、来栖大使ともさんざんやりあい、ニュールンベルグ裁判で絞首刑になります。

 さて、話を1041年9月にもどします。
 「杉原が発給したビザを容認するな」
 という外務省の訓電にたいし、根井はこう答えています。
「公館が発給したビザには日本の威信がかかっています。これを無効にしたら、日本は国際的な信頼を失うでしょう」
 そして、ユダヤ人難民たちを次々と船にのせます。

 これを迎えた敦賀では一般市民がとまどいながらも手厚くもてなし、
「ツルガという町は天国のようで、人々は皆、親切でした」
 という証言や資料がたくさん残されています。なんでも「朝日湯」という銭湯は1日営業を休んで、ユダヤ難民たちを無料で風呂に入れたそうです。

 このエピソードは歴史上の人物や功績は、有名か無名かでは決して判断できないことを私に教えてくれます。

 杉原ビザを旅の途中でなくした22歳のユダヤ難民のために、根井は極寒の中、ソリで走り回ったという記録もあり、多くのユダヤ人が杉原と同じぐらい根井に感謝していたそうです。戦後は杉原同様、根井も外務省には残れませんでした。が、法務省で職を得ています。名古屋入国管理事務所所長として定年を迎え、90歳で亡くなりました。

 もう一人、小辻節三にも触れさせてください。小辻はアメリカ留学の経験もあるユダヤ文化の研究者でした。松岡洋祐が満鉄総裁だったとき、ハルビンに招かれて、満鉄調査部顧問に就任。満州国にユダヤ人を招くため彼のパイプ役を勤め、極東ユダヤ人大会ではヘブライ語のスピーチを行い、親交を深めていたのです。

 命がらがらユダヤ人難民たちは日本にたどりついたものの、杉原ビザは日本を通過するためのビザで10日の滞在しか許されていません。小辻は入国許可や滞在延長を求めて、何度も外務省に足を運ぶのですが、とりあってもらえません。そこで松岡洋祐に面会を求めたところ、ヨーロッパ帰りの松岡は近衛首相や昭和天皇の信頼をそこね、難しい立場に置かれていたにもかかわらず、短い時間を割いてくれたのです。
 
 松岡は「大臣としてではなく、友人として話そう」と言って外につれだし、レストランで朝食をとりながら、
「きみの求めに応じれば、同盟国ドイツとの関係がむずかしくなる。しかし、ユダヤ人を救うことでアメリカとの戦争w急けられるかもしれない」
「滞在期間の延長は自治体に権限があるから、政府は任せっぱなしなのだ。きみが自治体を動かすことができたら、外務省は見て見ぬふりをしよう」
 と約束してくれたのです。
 小辻は資産家の義兄に30万円を融通してもらい、神戸警察の幹部を神戸でいちばん高い料亭で何度も接待して、滞在を延長してもらいます。(つっこみどころが多すぎる話なのですが)

 2.26事件の後は休息に軍事国家化がすすみ、日本にいる外国人は常に特高の尋問にさらされ、いつ拘束されて拷問にあうか、わからない状況にありました。
 ユダヤ人難民も偶然、道で軍人の葬式に出会ったとき、帽子をとらなかったという理由で、逮捕されてしまったり、大小のどらブルが絶え間なく起こりました。
 そのたびに小辻は奔走して、一方では船会社と交渉をもち、ほとんどの難民をアメリカに亡命させます。

 このため小辻は暗殺リストに名前が載り、何度も特高や憲兵隊から尋問されます。そして、1944年にはついに逮捕され、凄惨な拷問を受けるのです。

 彼は英語で自伝を残しているのですが、「ユダヤ人を助けた」という書き方をしていません。「人間として当たり前のことをした」というスタンスなのです。

 もともとは小辻は京都の賀茂神社の宮司の家の出なのですが、後に改宗してエルサレムで永遠の眠りにつきました。