(趣旨)
一院制は、独裁とポピュリズムを助長させる危険な思想である。
スピード感ある政治などというものは、拙速な意思決定に他ならない。
問題は二院制ではなく、衆議院と参議院の在り方の問題ではないだろうか。

昨日、「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」への出席のため、15年ぶりに硫黄島を訪問して参りました。(防衛大学校の3学年は、戦史学習のための硫黄島研修があります)

合同慰霊式は日米の政府関係者やご遺族が多数集まって、とても盛大なものでした。

その後、日本からの出席者のみで、別会場に移り慰霊祭を営み、島内の旧跡や塹壕などを巡り、硫黄島戦の激しさを改めて肌で感じて参りました。

15年前から、全く変わらぬ風景。いや、もっと言えば67年前から時が止まっているかのような錯覚に襲われつつ、未だ帰らぬご遺骨と地中に眠る戦士らに手を合わせ、遺骨帰還への誓いを行ってきました。

未だ帰らぬ遺骨は、何も硫黄島だけではありません。例えば、東部ニューギニアでは約10万人の戦死者を出しましたが、帰還した遺骨はたったの17,827柱(23年3月7日現在)で、約8万柱が現地で帰国の想い空しく眠り続けています。

未だ帰らぬ理由は、遺骨収集の業務が国のどの省庁にもないことが最大の理由です。戦後、戦地からの復員者の管理は厚生省の復員局が行ってきました。しかし、それは生き残った兵士の管理であって、厚生省設置法には戦死者の遺骨収集に関する業務は明記されていないのです。だから大規模な財源措置がなされないのです…。

話は変わりますが、一日の長い工程の間、私は強い違和感を感じていました。

それは、参加者の皆様の言葉の節々に「哀悼の念」はあっても、「賞賛の念」が見られなかったことです。

「苦しかったでしょう。帰りたかったでしょう。だから貴方がたのような哀しい戦死者を出さないように、私たちは平和を守り続けて参ります」という言葉。

行きたくなかった戦場に駆り出され、命を落とした戦死者に対する憐れみの気持ち…。

否定するわけではないのですが、私が逆の立場なら、後世の子孫らに憐れんでは欲しくないと思います。それでは報われないと思うからです。

「哀しい戦死者」ではなく、「雄々しく戦い散った勇士」なのではないでしょうか。

「戦争は嫌だ。外地で死にたくない。生きてもう一度日本の土を踏みたい。」間違いなくそう思いながら亡くなっていったことでしょう。

しかし、同時に「自分たちの戦いが一日でも本土決戦を遅らせ、愛する者たちのためになるのなら。」と心身を振り絞りながら戦い続けたはずです。


私は英霊に対し、

「過ちは二度と繰り返しません」ではなく、「平和を希求しつつも、一旦我が国に緩急あらば、義勇公に奉じる覚悟で生きて参ります」とお誓い申し上げ、次の句を献上して参りました。


國が為 鬼神となりて戦いし 雄々しき父の背中(せな)を忘れじ
(平成二十四年三月十四日 硫黄島にて)




自民党で憲法制定の推進本部の議論に参加している。

その第一条「天皇」について、「元首」と定めるべきかで、賛否が分かれた。

賛成派は、現行の天皇陛下が行われている国事行為等は、元首のそれに相当し、憲法で明確にすべきであるとの論理を開陳。

一方、反対派は、天皇陛下は世俗を超えた存在であり、元首という世俗的名称は陛下の地位を低めることに繋がるという論理であった。

しかし、これは「国家をどのように捉えるか」という問題で、極めて大切な論点である。


元首と定めるということは、国家を歴史の流れの中で自然発生的に誕生した有機体(生命体)であると捉え、その頭に相当する国家の長を「元首」とする原始的国家観である。

一方、象徴であるとするのは、国家を「個人と国の社会契約のシステム」と捉える考え方であり、近代において人工的に誕生した国家の多くはこのような国家観にたつ。


自民党が、どちらの国家観を取るべきか?考えるまでもなく、保守政党であれば前者を選択するはずである。

ここが、同じ保守でもお国柄の違う外国の保守政党とは価値観を異にする部分であろう。


保守とは、世界基準で統一される価値観ではない。我が国らしさを、伝統と歴史の中から抽出し、それに立脚した政策を立案するのが保守政党の役目である。
明けましておめでとうございます。

我が事務所も、本日から御用始め。自民党本部でも仕事始め式が実施されました。

さて、昨年は振り返ってみると、次から次に押し寄せる会議や講演依頼、各種団体との懇談会に忙殺され、政治家として、また一人間として人格を陶冶するような精神修養の時間を持てなかったことが一番の反省でした。

そこで、本日は比較的時間もあったため、政治を目指した原点に振り返り、安岡正篤先生の「東洋倫理概論」に目を通しながら、政治家としてあるべき姿勢を思い返しておりました。

その中の一文に「為政者の本分」という項目があり、改めて襟を正さずにはいられませんでした。

(以下原文ママ抜粋)
国家民衆はいかにしてよく敬におり、恥を知ることができるか。そは当然、百官有司すなわち為政者・指導階級によらねばならぬ。民衆は国家の部分的意思の実体であって、各々その生を営んで他有るを知らず、知ってもまた深く意に介せぬ。そこで民衆を乱離に陥れず、統一調和してよく永生につかしめる全体的意思に当たるものが為政者なのである。したがって為政者たるものは「民」に対して言えば、ぜひとも「士」でなければならぬ。もっとも恥を知り敬におるものでなければならぬ。
(中略)
果して為政者なるものが立派に士であり、善を持って人に先立てば、民はこれに由(よ)っておのずから正しからざるを得ない。そこで格別、法令治具によらずとも、民衆はひとりでに上に則りなろうて、いつの間にか清健な統一的組織活動、すなわち淳風美俗が出来上がる。これを「教化」と言うのである。


論語に「民は之を由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」という教えがありますが、現代のわれわれはこれを

「民は服従させておけばよい、知恵を着けてはならない」

というような意味と誤って捉えていますが、安岡先生はそのことも喝破され、正しい意味は

「民を知識や論理で教え諭そうとしてはいけない、ただ心の誠を以て民を信頼せしめよ」

だと述べておられることに対しても、目から鱗の落ちる思いでした。

「信なくば立たず」をまた然り。

(民主党本部にもFAXしてあげたいのですが、人のふり見て何とやら…まずは我が党が自彊することが肝要ですな。)


さて、本年は世界的に選挙の年、我が国に関係の深い世界中の国々で指導者の交代が行われる年です。

1月 中華民国(台湾)総統選挙
3月 ロシア大統領選挙
7月 フランス大統領選挙
10月 中国国家主席交代
11月 アメリカ大統領選挙
12月 韓国大統領選挙

そして、間違いなく我が国でも衆議院総選挙の年となるでしょう。我々も、政党である以上、自らの理念と政策の実現のために野党として敢然と戦う覚悟をしています。

通常国会が始まれば、冒頭から参議院における審議は、熱を帯びるに違いありません。そのことが、ともすると政局を争っている様に映るかもしれません。また、メディアは面白おかしく、それを掻き立てることでしょう。

しかし、大義に立ち国家国民の為と判断すれば、いかなるメディアバッシングを受けようが、敢然と戦い正道を貫くのも政治家の本分であると信じてやみません。

私自身も今年一年、この「政治家の本分」を反芻しながら、太くしっかりとした心の根をどっしりと張り巡らす一年にしたいと存じます。

本年も皆様のご指導ご支援を、宜しくお願い致します。


私は全く記憶にない時代の話であるが、昭和の45年ごろまでは、自衛隊による神宮外苑での盛大なパレードが実施されていたと聞いた。

しかし、当時の反自衛隊的世論もあり、左翼の執拗な妨害で中止に追い込まれることも多々あり、昭和45年の美濃部亮吉:都知事(共産党)による車両制限条例により、都内の公道におけるパレードは消滅した。


しかし今、あの時とは既に時代が違う。

自衛隊は十分に国民の信頼を獲得し、愛される自衛隊、頼りになる自衛隊として確固たる地位を築いた。

国民は自衛隊に強くなってほしい、私たちの祖国を身をもって守ってほしいと願っている。


そんな中、12/26付けを持って、自衛隊に対する東日本大震災からの災害派遣撤収命令が下された。(原発含む)


いまこそ、国民から自衛隊の公道パレードの実現を求める声を挙げる時ではないか?

「ありがとう自衛隊」の気持ちを行動で表す時ではないか?

自ら被災しながらも、助ける側に回り続けた現代の侍達に賞賛の声を届ける時ではないか?




国防は、国民にとっての最大の福祉であり、国家にとっての至上の道徳である。
先日の「憲法96条改正を目指す議員連盟(以下、96条議連と標記)」における、一連の発言について、正直ここまで大きな事になるとは思いませんでした。

私としては「筋を通したまで」という思いもありますが、それによりご迷惑をかけた方もいましたし、一部分だけを切り取るように報道されていたので、色々と誤解を与えている部分もあるようです。

改めて何が起こっていたのかと、何故私があのような行動に出たのか、考えを述べたいと思います。



そもそも、この「96条議連」は、閉塞感漂う憲法改正議論に対し、突如光明が差したような起死回生の突破口として鳴り物入りで立ち上がった議連でした。

立ち上がり当初から、200人を超える超党派の議員が賛同を示し、衆参の憲法審査会の設置も重なり、「いよいよ改正の道筋が開けるかもしれない」と、櫻井よしこ氏を始めとした有識者からも注目されていた議連でした。

しかし、政党間の温度差が激しく、民主党の議員はなかなか増えて行かない…先日行われた参議院憲法審査会にも出席して感じたのですが、民主党から選出された委員はすべて「護憲派」ばかりで、つまり、真剣に改正を目指そうという熱意や情熱が感じられないのです。

そんな中、国会の閉会中である12/16(金)10:00より、第三回総会が開かれるとのFAXが事務所に回って来ました。講師に「鳩山由紀夫氏を招いて、憲法改正についての考えを拝聴する」とのこと…。

恐らく多くの所属議員は、この時点で「閉会中であるし、鳩山氏の意見をわざわざ聞きに行くことはない」と不参加表明、あるいは秘書による代理出席にしたことでしょう。実際、当日集まった議員は数名でした。

私は前日に宮城県の東松島に復旧状況の確認のための現地視察に行き、仙台泊の予定だったのですが、議連の姿勢に対し一言物申したくて、朝早い新幹線にて東京に戻り参加したのです。

当日も5分前に会場に到着し、講師の目の前の席に陣取り待機しました。

時間を5分ほど過ぎて鳩山氏が来場。

来場した鳩山氏は、自分の締めているネクタイを会場の参加者に見せながら、「衛藤征四郎衆議院副議長に贈られたもので、私にぴったりだ」と笑顔たっぷりに会場の笑いを誘いました。

そのネクタイの柄は、グレイ(宇宙人)がサンタの帽子をかぶっているもので、「宇宙人」と評されている鳩山氏の自虐ネタでした。

これから我が国の憲法問題を語る講師の態度とは思えませんし、しかも彼の宇宙人的妄言にて、どれだけの政治的混乱と国家的損失を被っているのか、全く反省のない態度に私は怒りで震えました。(会場の一部の議員は笑っていましたが…)


さてここで、現行憲法の何が一番の問題点であるかという点に振り返ってみると、それは「国家危機に関する事項が欠落している」という点に尽きます。つまり現行憲法は究極の国家危機である戦争を想定していない。つまり国家の交戦権を否定している9条が、喉元に刺さった最大の棘なのです。

そして、憲法で国防を否定しているため、それを日米安保にて補っているというのが戦後日本の歪そのものなのです。

つまり、憲法問題と米軍基地問題は、表裏の関係にあるのです。
「米軍基地反対!、憲法改正反対!」というのは論理的に矛盾しているのです。

もし、「米軍に出て行ってもらおう」というのなら、憲法9条を改正し、自国の軍隊を保持することを明記して、独自に護らねばなりません。

鳩山氏は米軍の普天間基地移設に対して、「国外、最低でも県外」とできもしない公約で沖縄県民の心を弄び、日米関係にヒビを入れた張本人です。総理在任中に一言でも「憲法改正をして、独自の防衛を目指すべきである」との発言をしたでしょうか? 憲法審査会を早急に開くよう指示をしたでしょうか?

つまり、「憲法問題=米軍基地問題」の方程式を介さない者に、憲法改正を語る資格などないというのが私の考えなのです。

しかも、時期的なものの考慮すべきです。鳩山氏の妄言にて袋小路に陥った普天間基地移設問題。民主党は反省もなく元の自民党案に戻りましたが後の祭り、沖縄の理解も得られない中、米国議会にて米軍再編関連経費を全額カットされ、年末に提出する準備をしている環境影響調査書は宙に浮いてしまいました。

そんな重要な時期に、憲法問題を議論する超党派の議連に、元凶である鳩山氏を招くセンスのなさ…。私はこの点を、事務局に問いただしました。

自民党側の呼びかけ人である古屋圭司代議士からは「鳩山氏の改憲論は、一部参考になる点もある」と取り成す発言があったのですが、やはり納得いきませんでした。
本来ならここで、民主党側の呼びかけ人である小沢鋭仁代議士にも発言を求め「民主党は本気で改憲を目指す気があるのか!」と問い詰めるべきでした。


議連に参加する議員には、温度差があります。特に超党派議連というのは「形だけ入っておこう」というような腰掛け議員も多いのも事実です。

しかし憲法改正をその程度の問題として扱う国会議員には我慢がなりません。
今やらねば、命がけで真剣に取り組まねば、本当に日本国がなくなってしまう…そんな強烈な危機感を
一体どれだけの国会議員が感じているのでしょうか…。

憲法改正には、これからも真剣に取り組んでいきますが、超党派の議員連盟に期待をするのはもう辞めました。

「国賊たる左翼党を徹底的に叩き潰し、政権第一党で2/3を確保する!」それが一番の近道であると思います。