久々に自作品の投稿、公開です。

 

 ニコニコ動画のサイバー攻撃からの復旧がまだということで、ひとまずはYouTube, SoundCloudのみでの投稿となります。

 

YouTube

 

SoundCloud

 

 詞の題材の内容説明については、YouTubeの概要欄に詳述してあるので、ご一読いただきたく。(古典を原文ママで詞として採用し、和ポップに仕立ててボカロに歌わせる試みです)

 

 いやあ、長かったです。

 この曲の構想を思いついたのは昨年11月のことでした。ちょうどシティポップのバンドにギタリストとして参加して、ライブが終わったあたりです。

 

 その頃、アニメ映画「犬王」を見たんです。

 犬王は、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した能楽師で、同時代に観阿弥と人気を二分したと言われています。最晩年まで足利義満の寵愛を受け、後小松天皇の御前で天覧能を披露するなど、その目覚ましい活躍の割には、その人物像は謎で、風流歌舞を旨とする近江猿楽の流れを汲むということ以外は、その芸風もよく分からないし、流派が継承されてもいません。おそらくは観阿弥・世阿弥の能とはかなり違っていて、動きが速かったのではと言われていたりもしますが、よくは分からないようです。

 

 犬王という人物の全てが謎多きゆえに、アニメ映画で描写する自由度が高いんですね。このアニメ映画「犬王」がとても素晴らしかったのですが、僕が特に触発されたのは音楽です。少しロックやブルーズに寄り過ぎなきらいもありますが、伝統邦楽の要素を現代的に取り入れた音楽としてとてもクリエイティブで秀逸だと思ったんです。映像と演出、ストーリーも素晴らしいのですが。

 

 さらに、劇中で聞いたことのあるフレーズがあったんですね。それが「二条河原の落書」の一部分だったんです。メロディを付けずに太夫節のような語りだったような気がしますが、よくは覚えていません。

 ただ、これを一部じゃなくて全文、ボカロの和ポップで作りたいなと思ったんです。強い衝動です。

 

 「二条河原の落書」は建武の新政の頃に洛中に掲示されたとされる落書(らくしょ、風刺文)で、八五調と七五調を取り混ぜた八十八節から成る長歌形式の文になっています。高校日本史の資料集や用語集などに必ず出て来ます。犬王の時代の7、80年ぐらい前のものです。現在に伝わる落書の中で比類なき傑作とされているのですが、本当によく出来ています。建武中興の政策(旧領回復令、伝奏結番、決断所、篝屋の設置など)ともよく符合しますし、洛中の混乱や習俗が皮肉たっぷりにリズム良く描写されていて、読み応えがあります。

 

 既に和ポップで楽曲が作られているのではと調べてみたのですが、学研がラップ動画を出していて、これはほとんどが省略されていて一部だけを紹介する子供向けの教育目的なんですね。他にAIボカロで作られた楽曲があり、これは全文ではなくかなりの中略部分が「曲に入りきらなかった部分」として動画中に文字のみで表示されていました。

 

 僕は全文を楽曲化してかなり異なる方向性で作りたいと最初から思っていました。意訳を挟まず原文のみとし、和の要素をふんだんに盛り込みつつ自分の音楽性を軸にして、ポップな作風で構造的強度のある作品として成立させたいと。 

 で、おそらく誰もそこまではやっていないようだと。

 

 そこで、12月の頭ぐらいに、懇意にしている絵師・浜渡浩満氏に話を持ちかけました。相当な枚数が必要になるので、ダメ元だったのですが、一発OKでした。これはもう、彼の教養の高さを見込んでのオファーであり、知的好奇心に訴えかけたつもりでした。彼なら面白がって乗ってくれるのではと。結果、期待以上でした。

 

 それからは年末の諸々があって着手出来ずにいたのですが、年明け早々から腰を据えて作曲に取り掛かりました。

 

 ライブや諸々の仕事と制作案件も抱えながらなので、少しずつ進めて行ったのですが、まずは原文の文意の解釈から始めました。

 中世の文なので上代や平安朝期に比べればかなり分かりやすいのですが、古語辞典を引きつつ、国会図書館デジタルコレクションで公開されている文献やWEB上の資料に当たる必要も多々ありました。

 

 僕が意訳を挟まなかった理由は、ひとえに野暮だからです。注釈を作品中(画面中)に入れると、原文の持つリズムと語義の精度、名文性が損なわれると思ったのです。

 ならば、原文のまま扱って絵と合わせれば、それなりに内容が伝わると考えました。つまり、歴史を伝える指向性よりも作品性を重視しました。

 

 また、現代語訳がWEB上に見受けられましたが、訳者の解釈や言葉遣いのセンスが入るんですね。例えば「色好み」を「スケベ野郎」などと訳すケースがあるわけです。こういった言い換えは、当時の書き手の感性から乖離し過ぎてしまうように思います。多少のズレは許容したいですが、程度の問題があるなぁと。やはり、今回の制作に注釈や意訳を入れるのは避けようという思いを固くしました。

 

 作曲に及んでまずぶつかったのは、セクションをどう区切るかという問題でした。原文は音楽として作られたわけではなく、当然、現代のポップスのフレーム(Aメロ、Bメロ、サビなど)に当てはまる纏まりはないわけです。

 さらに、七五調及び八五調の語呂を崩さない譜割りを考える必要がありました。変な所で切ったり伸ばしたりしては台無しになるわけです。

 

 検討した結果、セクションについては、Aメロ、Bメロ、Cメロといった枠を設けつつ、それぞれの尺を固定しないことにしました。

 つまり、

 

 イントロ前段:雅楽調・無拍

 イントロ: 8小節 

 

 1コーラス目:

  A: 6小節、B: 4小節、C: 4小節、D: 5小節

  E: 8小節

 

   語りパート1: 11小節

 

 2コーラス目:

      A: 6小節、B: 4小節、C: 4小節、D: 8小節

  E: 13小節、F: 13小節

 

    語りパート2: 11小節

 

    3コーラス目:

      A: 9小節、B: 4小節、C: 4小節、D: 7小節

  E: 13小節

 

 エンディング:13小節

 エンディング後段:雅楽調・無拍

 

という構成です。こうすることで、文の内容の区切りと曲のセクション構成を両立させることが出来たのではと思っています。

 さらに、曲全体の尺についてですが、BPM130のテンポで、歌の旋律に16分音符を多用しました。つまり、かなり早口になりますが、ボカロなら十分聴き取れる上に滑舌も良く、噛みません(笑)。人間が歌うことも可能かとは思いますが、相当な早口言葉的な練習を要すると思います。こうすることで、尺を5分以内に収めました。

 ただ、早口なだけでは緩急が付かないので、伸ばす音を入れてセクションをまとめるなど、工夫はしました。このやり方は文楽の語り(素読みや地合から節へ繋ぐなど)で見られる要素を参考にしました。

 

 次に、拍子の工夫です。

 基本的には4/4拍子ですが、セクションの繋ぎに2/4拍子を入れる箇所が幾つかあります。例えば1コーラス目のEメロ(「賢者ガホナル伝奏ハ」で始まるセクション)をサビと位置づけているのですが、その前に見栄を切るような意味合いで2拍入れてあります。

 

 さらに、曲が終始同じ調子で進むのを避けるために、変拍子のセクションを2つ設けました。

 1つは、2コーラス目のFメロ(「犬田楽ハ関東ノ」で始まるセクション)で、全て3拍子です。ここは後述しますが、バロック風のアレンジにしてあります。

 もう1つは、3コーラス目のAメロ(「非職ノ兵仗ハヤリツツ」から始まるセクション)で、4/4, 6/8, 7/8, 4/4, 6/8, 7/8, 5/8, 2/4と、ほぼ1小節每に拍子が変わります。ここは、原文の文字数も変則的なのでそれに合わせたのと、ドラムとベース及び鍵盤を無くして和楽器のみのアレンジにしたのとで、聴感上の違和感はないと思います。そもそも、伝統的な邦楽では4/4拍子という概念はスタンダードではなく、古典箏曲では拍子も和音も無く、旋律しかありません。なので、和楽器のみのアレンジでは、歌に合っていれば変拍子に違和感が生じないと考えました。が、苦心したので、このセクションだけ動画中に何拍子かを表示しました(笑)。このセクションは曲の勢いを一旦落ち着かせる機能を意図しているので、歌の旋律も16分ではなく8分音符ベースにしてペースダウンしています。

 

 次に工夫した作曲上のポイントは、転調です。

 Aマイナーキーから始まり、Cメジャーキー、Aマイナーキー、Bbマイナーキー、Dbメジャーキー、Bbマイナーキー、Cマイナーキー、Eマイナーキー、Fマイナーキー、Aマイナーキー、と転調しますが、Cメジャーキーは平行調なので、2コーラス目の終わりまではAマイナーキーを基調としています。

 語りパート2(「町ゴトニ立 篝屋ハ」から始まる)からBbマイナーキーに転調しますが、エンディングの手前まではこの調が基調になります。

 エンディングでは冒頭8小節をCマイナーキーで基調とし、ラスト4小節で1小節ずつ転調を畳み掛けて終わります。

 こう書くと沢山転調していますが、曲調がガラッと変わるような転調は控えました。少しの変化をもたらして飽きが来ないようにするという意図です。ゆえに、さらっと聴いているとどこで転調しているか、ラスト以外は気づかないのではと思います。転調で曲調まで大きく変えてしまうと、他の要素の変化が多いだけにポップスとしての纏まりを欠くと考えたからです。

 

 次に、2つある語りパートです。

 1つ目の語りパート(「為中美物ニアキミチテ」から始まる)は標準語、2つ目の語りパート(「町ゴトニ立 篝屋ハ」から始まる)は関西弁のアクセントを採用しました。きりたん(ボカロ)を関西弁に調声するのが難しく、完全に思い通りではないのですが、何とかそれらしくなったのではと思います。また、これをラップとは呼ばず、語りと呼ぶことにしました。ラップはヒップホップ由来の物で、個人的に韻を踏む必要があると思うからです。原文に明確に押韻と言える箇所が少ない以上、ラップと呼ぶのは個人的に腑に落ちないため、語りパートとしておきます。(他者が韻を踏まないラップを主張するのは否定しません)

 

 最後に、コード進行です。

 まず、曲調を決めるとも言えるイントロは、Aマイナーキーらしく、冒頭4小節(雅楽セクションの後)でトライアドを多くしました。その方が和ポップらしいという判断です。いきなりテンションを持って来ると西洋臭くなってしまうので、最初はトライアドから始めました。また、琴や龍笛などの和楽器との相性もトライアドの方が良いと考えました。途中からそこは無視して行きますが(笑)。

 とはいえ、Aメロからはテンション、ディミニッシュ、オーギュメントを嵐のように使っています。そこに和風の歌の旋律を絡めたわけですが、この調和を図るのに最初は苦心しました。結果、Aメロはほぼ1拍每にコードが変化することになりました。ここはダイアトニックコードだけで成立するのですが、それだと個人的につまらないというか、和の旋律にカラフルな和声の変化を付ける方が面白いと思いました。Aマイナーキーでごく普通の進行だと僕の感覚では作品としての構造的強度を欠くのです。

 

 コード進行については書き出すとキリがないので、このぐらいに留め置きますが、一つだけ和声について(理論に興味のない方はこのパラグラフを読み飛ばしてください)。この曲というか僕の曲では分数augがしばしば出て来ます。通常は分数augの分母は、augを構成音とするホールトーンスケール(全音階)のどれかになるのが和声学的なセオリーです。有名なブラックアダーコード(augのルートの減5度下が分母になる)もそうなっています。が、僕はしばしば敢えてルートの5度下の音(全音階ではない)を分母に置きます。ホールトーンスケールもaugも、構成音の特徴から、調性感の薄い音階と和音です。そこに敢えて5度下のベース音(=キーの構成音且つマイナーキーの基音の増5度上)を加えることで、調性感を少し足しているのです。これをベース音以外でやると物凄い違和感が発生しますが、ベース音だと少しモーダル寄りになると考えています。さらに、ベース音の前後の線的繋がりもこのアプローチの機能の可否を左右します。

 これは僕の独自研究(対位法の勉強途中に思いついた)なので一般的にコンセンサスを得られているアプローチではないですが、今後も余程破綻を感じない限りは使うと思います。

 

 これまで作曲のプロセスについて書きましたが、ここからはアレンジの過程について書いて行きます。

 

 制作の全工程で最も時間を要したのがアレンジなのですが、まず大枠として和ポップとして纏め上げることを念頭に置いて取り組み始めました。

 

 アレンジのフレームとなるジャンル的な要素を軸にして書いて行こうと思います。

 

■雅楽的要素

 イントロの前段とエンディングの後段に雅楽的な要素を置くことにしました。具体的には、イントロ前段では、笙(しょう)と篳篥(ひちりき)のサンプリング音源を、リバースシンバル的に使いました。雅楽に関しては、専門的に詳しい知人からほんの少しアドバイスをいただきつつ、自分で調べたことも参考にしつつ素人なりにアプローチしました。あの笙の独特の和声は何なのだろうと思っていたのですが、基本的に2度堆積なんですね。これを教えていただいた時には驚きと歓びがありました。篳篥はプワー!という縦笛ですね。これはエンディングの後段で主に使いました。他に、鉦鼓、羯鼓という打ち物(打楽器)がありますが、これはサンプリング音源を入手出来なかったので、シンセで音色を自作しました。そっくりとは言えないですが、エンディング後段でそれらしく使うことでそれらしくはなったのではと思います。藝大のYouTube動画を参考にしました。

 

■和楽器要素

 使った和楽器音源は、琴、三味線、龍笛、篠笛、尺八、鼓(つづみ)、大太鼓です。これらの使い方には手こずりましたが楽しかったです。

 まず、音階です。モロに西洋的な音階(教会旋法)を使うと和楽器っぽく聴こえないんですね。なので、ヨナ抜きとニロ抜きの短音階を中心に使いながら、そこから外れる要素を混ぜて行きました。これはコードトーンをさり気なく混ぜることも有効だったように思います。

 次に、音域ですね。これらの和楽器の音色がそれぞれどの音域で映えるか、効果的かを考えるのは楽しかったです。

 あとは、その楽器らしいフレージングです。例えば篠笛なら、神楽を参考にしてフレーズを考えたのですが、やっぱりピーヒャラピーヒャラという譜割りは強力なんですよ。音階以上に譜割りが強力です。多用は禁物ですが(笑)。尺八は奈良時代に既に渡来していたようですが、音程の跳躍がそれらしさを醸し出します。

 さらに、琴には音色の癖があり、サスティンが揺れるんですね。この揺れには幽玄の美しさがあると思うのですが、速いレガートには向きません。この揺れを活かした箇所と、敢えて揺れを薄めて速いレガートに使った箇所とがあります。

 それから、三味線は「二条河原の落書」が書かれた14世紀前半にはまだ存在しなかったようですが、敢えて使いました。三味線は撥弦楽器としてとても優秀だと思います。単音で琴とオクターブユニゾンさせるも良し、トライアドのコードストロークではコード感よりもアタックが際立つので、他のパートの邪魔になりづらく、和のテイストも強く出ます。また、ストロークの譜割りですが、8分の中に連続した16分音符を混ぜるとそれらしくなります。最初は津軽三味線を参考にしたのですが、リズムがかなり複雑で表裏がひっくり返ったり変化が激しいので、今回は曲に合わせて比較的シンプルなリズムを作りました。

 最後に、打ち物としての鼓(つづみ)ですね。これは小鼓も含めて幾つものサンプルを用意しました。強さ、ピッチ、打つタイミングを工夫しています。鼓の基本奏法は4つ(タ・チ・ツ・ポン)あると言われますが、タイミングは表拍も裏拍もあり、様々です。今回は沢山入れる箇所と入れない箇所とがあります。

 

■ジャズ的要素

 あまりジャズを語るとジャズ警察が来るので控えたいところですが、コードプログレッションと和声、ピアノのタイミングなどはその要素からの影響があると思います。いつものことですが。

 

■バロック的要素

 これは2コーラス目のFメロ、全て3拍子のセクションですね。チェンバロと歌のみでまず4小節、5小節目からチェロが加わり、8小節目からヴィオラとヴァイオリンが加わり、13小節目でブレイクします。ここではドラムとベースのないミニマルな構成でペースダウンさせています。今年はバロックの勉強(主にバッハ以前、通奏低音など)をしていて、チェンバロの倍音の押し寄せる波のような美しさに魅入られたこともあり、この短いセクションを俄か仕込みながら作りました。チェンバロはもっと良いサンプリング音源が欲しいのですが、今後使うかと言うと頻度は少なそうです(苦笑)。

 

■エレクトロ要素

 2箇所作った語りパートです。歪んだ太いシンセベースと4つ打ちキックを軸にしています。語りパート1の方では琴と三味線をアンサンブルに絡めており、語りパート2の方では語りを関西弁にした分、パート構成はシンプルにしてベーシックなトラックメイクの力強さを出してみました。コードを担当するシンセは複数トラックを薄く幾つか重ねて、サイドチェインでダッキングしてあります。

 

■ロック要素

 これは1~3コーラスのEセクションでサビという位置付けです。3セクション共、ロックパートなのですが、アレンジは変えてあります。1コーラス目はややブルージーなギターのフレージング、2コーラス目はシンプルにメタル寄り、3コーラス目は歪んだギターのアルペジオを混ぜつつ、コードリフをオルタナティブ寄りにして薄くシンセを重ね、最後に速弾きフレーズを被せています。

 ボカロ界では和ポップというか和ロックの名曲とされているものに「千本桜」がありますが、その辺りとは被らないテイストを意識しました。

 

■総合的な方針

 気をつけたことはジャンル的要素や理論に引っ張られ過ぎず、感性的な必然性を重視したことです。結局は、理論的にどうかよりも、感性によって良いと観取できる音を選んで行くのです。その方が面白くなるし、ある程度分かった上で変ならその変さがチャームポイントになると思っています。

 「普通はこっちだろうけどこっちに行きたい」と思ったなら、行きたい方へ行く方が創造性の扉を開く可能性が高くなる気がします。

 

 最後に、ミックスとマスタリングですが、今回は総トラック数が80トラックに及びました。これまでで最多であり、僕のメインPCのスペックではかなり厳しいものがありましたが、工夫と探求を重ねて何とかギリギリのところでトラックダウンまで漕ぎつけました。この詳細については、作編曲ではなくエンジニアリングの領域になるので、今回は割愛したいと思います。

 

 また、約90枚に上る前景絵を全て描いていただいた浜渡浩満氏には最大の感謝を。枚数の多さと、落書という性質を踏まえてラフな毛筆のタッチで描いていだだいたのですが、きっと面白いと思ってくれていたと察せられるようなユーモアとポップさのある絵の数々が素晴らしいです。

 複数の出典(写本を元にした出版物)による仮名の表記揺れや、用語の意味の擦り合わせなどで手間を取らせてしまったこともあり、その点も重ねがさね感謝したいと思います。

 

 今回は、作りたいものを全力で楽しんで、ボカロポップスとして後世に遺すぐらいのつもりで作りました。すぐに評価を得ようなどとは思ってませんし、作っている最中は一切ウケを狙いに行きませんでした。けれど、作り終えた今は、この作品が年月を経ながらじわじわと存在感を放って行くような気もしています。まあ、そうなれば幸いですが、あとは野となれ山となれ、僕はやり遂げた、という気持ちでいます。

 

 動画編集も含め大変でしたが、今年後半はこのような酔狂からは離れて、ビジネスライクな制作をガンガンやることになりそうです。

 そしてその経験を経て、今度はよりアーティスティック且つポップで質の高い作品を作ることになるような、そんな気がしています。

 

 

以上

 以前から日本最古の官道と言われる竹内街道を自転車で走破したいと思っていたのでした。

 

 竹内街道の起点は奈良県葛城市の長尾神社です。

 終点は大阪府堺市堺区榎元町にある三叉路で、熊野街道と西高野街道との分岐点になります。紀州街道との分岐点を終点と捉えると、それより少し西の大小路交差点が分岐点になりますが、今回は前者の三叉路を終点としました。

 

↑今回走破した竹内街道のルートです(全長28.7km)

 

 僕は大阪側から行くので、この竹内街道の終点から起点を目指すというルートを走ったのでした。

 

 その道程の詳細を書く前に、そもそもの僕が竹内街道を自転車で走りたいと思った動機について、この稿で述べておくことにします。(かなり長文になります)

 

 これまで何度か大阪から奈良へ抜ける幾つかのルートを自転車で走っているうちに、自然と地理的な要因からルートとして竹内街道が浮上し、さらに古代史と関連する興味が湧き、いつか走破してみたいと去年の夏頃から思うようになっていたのでした。

 

 大阪から奈良へ自転車で行くには、どうしても山地を越える必要があります。

 自転車で大阪から奈良へ抜けられそうなルートを思いつく限り、北から挙げてみます。(クロスバイクやロードバイクなどのスポーツ自転車で走る場合を想定しています)

 

① 磐船神社ルート (大阪府交野市~奈良県生駒市北田原町)

② 清滝峠越え (大阪府四條畷市~奈良県生駒市北田原町)

③ 阪奈道路ルート (大阪府大東市~奈良県生駒市)

④ 暗峠越え (大阪府東大阪市~奈良県生駒市)

⑤ 十三峠越え(大阪府八尾市~奈良県生駒郡平群町)

⑥ ぶどう坂(大阪府柏原市~奈良県生駒郡三郷町信貴ケ丘)

⑦ 大和川沿いルート (大阪府柏原市~奈良県北葛城郡王寺町)

⑧ 大阪教育大前ルート(大阪府柏原市~奈良県香芝市)

⑨ 穴虫峠越え (大阪府太子町~奈良県香芝市二上山駅前)

⑩ 竹内峠越え (大阪府太子町~奈良県葛城市)

⑪ 水越峠越え (大阪府千早赤阪村~奈良県御所市)

⑫ 国道310号ルート (大阪府河内長野市~奈良県五條市)

 

 書き出してみて改めて思いましたが、こんなにもあるのですね。そのうち、これらのルートについて詳しく書いてみようと思いますが、今回はさらっとさらう程度に留めます。

 

 これらのルートには、自転車で越えるのにあまり現実的ではない、もしくは僕が走りたくないものもあります。

 

 まず、③は交通量が多く路肩もなく、山の西斜面はつづら折れ区間で二輪四輪の走り屋が多く事故多発地帯である上に、山を越えた先の東側は、南北に走る国道168号との交点が高架になっており、自転車での通行に適しません。

 

 それから、④の大阪側は関西ヒルクライムコースとしてはSクラスを誇る、サイクリストにとっていろんな意味で最難関に近いルート(いわゆる酷道)なので、基本的には除外です。オートバイ、自動車、徒歩ならまあ、といったところです。ネタで話の種として自転車で登るのはありだと思いますが、あり得ない急勾配の隘路では対向車が来たら走行しながら避けるのはほぼ不可能だったりします。上級者以外は、難所で意地を張らずに自転車を降りて押すことをオススメします。

 

 ⑤は中級者向けのヒルクライムコース、⑥は初級者向けのヒルクライムコースだと思いますが、基本、ヒルクライムコースとはきついものです。途中で押して歩くとか休憩するなら別ですが、足付き無しで登るならラクということはないです。登頂の達成感は格別ですが。特に全行程がロングライドになる場合は、後からも脚や心肺に疲労が来ます。自分のレベルに合ったルート選びが問われると思います。

 

 ⑦が唯一、谷沿いを通るので山越えがほぼ無いに等しいルートなのですが、国道25号の山間部には路肩が無く、交通量も多く危険なのでオススメはしません。とはいえ、僕は比較的よく通るのですが、すぐ50cmぐらい横(もっと近いかも)をダンプトラックが後ろから走り抜けたりするので、かなり怖いです。多少走り慣れてきても、ヒヤリとする瞬間は必ずあります。

 

 ⑧は軽い山越えがありますが勾配は緩く、体力的にはラクなルートと言えます。ただ、⑦と同様、国道165号の山間部は自転車にとって危険な区間があり、オススメしません。(僕はよく通りますが)

 

 ⑨は峠越えなので⑦⑧よりはきつい勾配の区間がありますが、ヒルクライムとしてはハードではないです。が、やはり自転車が通り易いとは言えません。初めて自転車で通った人が「死ぬかと思った」と言うこともあります。(僕自身は何度か通ってますが、⑦の方が怖いです)

 

 ⑪と⑫は僕からすると今のところ論外です。大阪市の北西エリアに住む僕にとって、千早赤阪村や河内長野市はかなり遠く、また、葛城金剛山系を越える険しさも、中級以上のサイクリスト向けと言えます。僕の自転車はロードバイクではなく、クロスバイクなのでさらにハードルが上がります。大阪府南部エリアにお住まいのロードバイク乗りの人は⑪をよく走っているかと思いますが。奈良側へ抜けると帰りも大変かと思います。

 

 僕が自転車で走ったことのあるルートは、①②⑤⑥⑦⑧⑨です。現実的なルートで通ったことがないのが唯一⑩の竹内峠でした。

 竹内峠も⑪⑫ほどではないにしろ、大阪府南部からの山越えとなり、奈良に抜けるのに若干遠回りになるので、通る機会を逸していたのでした。ただ、標高と勾配から考えて、僕が走れるルートだろうなぁとは思っていて、気になる存在だったのです。

 

 以上のことはまあ、地理的要因による動機なのですが、それに加えて、最近の僕の古代史への興味関心の高まりが竹内街道を走破したいという欲求に大きく寄与していたのでした。

 

 古代史と竹内街道について僕が興味を持ったポイントや経緯について少し書きます。

 

 日本書紀の推古天皇21年(西暦613年)条に「難波より京(みやこ・飛鳥)に至るまでに大道(おほち)を置く」とあり、この大道(おおじ・たいどう)は、飛鳥の都と難波(なにわ・大阪)を結んだ横大道と竹内街道を指すとされています。横大道は飛鳥(奈良県明日香村)から長尾神社(奈良県葛城市・竹内集落)まで、竹内街道は長尾神社から難波(大阪)まで整備された、日本最古の官道とされています。日本書紀にはそれより以前の仁徳天皇14年条に難波大道という大阪市と堺市を南北に結んだ道の記述もありますが、推定ルートこそあれ、旧道らしい風情のある痕跡は現存しないと思われます。

 

 また、竹内街道は百舌鳥・古市古墳群(5世紀築造が多い)のエリアと二上山西麓の4世紀の古墳群が多いエリアを通るので、推古朝以前の古墳時代前期から飛鳥と難波を往来する人々は、渡来人も含めて多かったと推測出来ます。推古朝で官道として整備されたのは、小野妹子らの遣隋使が大陸からの使者を飛鳥に招来するために立派な道路が必要だったからではと思います。また、大陸からの使者だけでなく、既にシルクロード交易ともこの竹内街道が無縁ではなかったと言われていますが、詳しくは知りません。

 

 推古朝と言えば聖徳太子ですが、当時、法隆寺のある斑鳩と四天王寺・難波津(上町台地北部の沿岸)の往来には、竹内街道より北側の大和川の水路そのものか川沿いの竜田道などが使われたようです。ただ、大阪と奈良の境界区間、大和川の山間部は地すべりの規模と多さで名高い「亀の瀬」という場所もあり、治水や土砂災害の面で難があったとすれば、あまり常時安全に通れるルートではなかったかもしれません。そこから飛鳥へも往来があったとは思いますが。

 

 竹内街道は現在まで街道・道路として機能しています。

 飛鳥時代には壬申の乱の進軍路としても、中世には伊勢街道の一部として、1890年には府県道として、1974年には国道166号を含む道路として、利用され続けています。つまり、現在に至る1400年の歴史を持つ現役の古代官道ということで、これは率直にすごいなと。

 

 そういうわけで、終点から起点まで自転車で走ってみたいと思ったのでした。

 しかしまあ、一応地元と言える地域にあるのに全く通ったことがなく、これまであまり意識したこともなかったのでした。たぶん、僕と同じ大阪市民・府民でも、歴史的に重要な割りにそれほど関心の高い人が多くないのではと思います。

 

 昨年ぐらいまでは、古い街道を自転車で走ってみたいと思ったこともなかったのです。これはもう、僕の日本の古代史への関心が薄かったのと、街道のイメージが東海道や中山道、伊勢街道など、長大で険しいものだったからだと思います。

 

 古代史への僕の関心は、昨年ぐらいから急速に高まりました。日本の古代史好きのミュージシャンとライブで共演して知り合ったのがきっかけだったと思います。その方は、古代史座談会というゆるい愛好家の集いを主催しており、興味があったら来てみないかとお誘いがあり、行ってみたらすこぶる面白かったのです。年齢層が近い人が多くて居心地が良かったというのもありますが。

 

 それまでの僕は古代史と言うと、日本よりも世界史の方に興味があり、そちらの知見はそれなりにあったと思います。  

 一方、日本史への興味関心は、奈良・平安時代以降に偏っていました。

 古代史座談会に参加してみて、日本の古代史について僕の知識がとても薄く、しかもその知らない要素に面白さが沢山詰まっていると感じたのは新鮮な驚きでした。また、世界史と関連付けて日本の古代史を国際関係史的に捉えることにも強い関心が湧きました。

 

 例えば、邪馬台国の時代(3世紀)について魏や呉、日本各地の諸集団との関係など、何が判明していて何が判らないのか、4世紀が文献資料のない空白の時代であること、5世紀の古墳時代にヤマト王権がどのように生起し隆盛したのか、6世紀末の推古朝から7世紀の天武朝にかけて皇族と各豪族がどのように結び付いて律令国家の形成に向かって行ったのか、など、単に教科書に載っている内容だけでなく、最近の考古学上の発見と文献上の歴史学の照合の進展にもかなりワクワクするものを感じるのです。僕らは(主語がでかい)、昔のことを何も知らなかったのでは?と。

 

 僕が最初に古代史座談会に参加した時は、折しも富雄丸山古墳(4世紀後半築造)から巨大な蛇行剣が発見されたニュースが流れたタイミングでした。ニュースを見た時はふーんというぐらいの関心だったのですが、空白の4世紀を埋める発見であることや、その蛇行剣が東アジア史上類を見ない大きさと形状を有し、当時の日本で鉄の鍛造技術の飛躍的な発展があったことを示している、といったことを知ると、俄然興味が湧いて来たのでした。

 

 となると、でかいだけで大して見どころがないと思っていた百舌鳥・古市古墳群(世界遺産)など、古墳を見る目も変わって来ました。いやはや、僕のつい最近までの古墳への眼差しの何と酷かったことよ……。

 

 とまあ、書き出すとキリがないのでこの辺りにしておきますが、そういった僕の古代史への興味関心の傾倒の流れと、サイクリングにまつわる地理的な関心とが重なって、竹内街道を走りたいという動機が生じたのでした。

 

 次回は、竹内街道の終点(今回のスタート地点)までの道程である旧熊野街道を八軒家浜から18.6km走った詳細を備忘録的に書きます。

 

 

以上

 平家物語で白河院が自分の意のままにならぬものとして「賀茂川の水、双六の賽、山法師」を挙げたくだりは有名ですね。それだけ院政が上手く行っていたという比喩として、いかにも芝居掛かっていますが。

 

 水害は自然、賽の目は運、山法師は埒外の人、といったところでしょうか。

 

 僕が自分自身の暮らしにおいて「ままならぬ」と今感じているものは、天候に左右される持病、自分自身の行動、集客と受注、あたりです。

 

 天候と持病はある意味で自然のものです。多少の対策は出来ても、抗えないときはあります。

 自分の行動(主に生活態度)については、気分で変えてしまうことが多くなる時期があるのを問題に感じていて、自由度が高い程、秩序を守るのが難しくなる波があり、しばしばままならさを感じます。上手く出来る時期の波もあるのですが。

 集客と受注はもう、「人」ですね。人を動かすのは難しいということです。ままならないけれど、長い目で見て、誠実に接していれば良いように整理されて行くことなのかもしれませんし、繋がりを選択的に作り続けて行く不断の努力が必要とも思えます。いずれにせよ、逃れ得ない大変さがあります。いや、そもそも人を意のままにしようだなんて傲慢です。同じ方向を向いて共に働くというような協働的な流れを作る方が望ましいとも思います。人に対して操作的にならず、相手も操作されている感触を持たない、そういう対等な関係性の中で相互利益を生み出して行くというか。商いと言えど、対人関係の操作性には留意が必要だと、何となく思っています。

 

 白河院と大きく違うのは「運」の要素を僕があまり気にしていないところでしょうか。

 白河院はある意味、上に挙げた3つ以外、つまり自分自身の行動については「ままになる」と感じているのでしょう。

 

 自分を御することが出来るだなんて、相当デキる人です。

 本当にそう言ったのかは分かりませんが。

「ジェンダー差別発言」に若い記者から総スカン…川勝知事が「不適切にもほどがある」失言を繰り返す理由 30年前から価値観がアップデートされていない #プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/80147

 

 この記事は一例ですが、今の年配の人々の言動の中に共通する前時代的価値観が垣間見えるように思うのです。

 勿論、全ての年配の人々に当てはまるという意味ではないですし、若年層の中にも親世代の影響を受けて前時代的価値観を持つ人がいることと思います。

 

 この前時代的価値観を特徴付ける大きな2つの要素があるように思います。

 

1.差別的思考

2.封建社会の残滓

 

です。

 これら2つには相互に結びついている要素もあると考えられますが、まずはそのように大別出来るかと思います。

 

 上記引用記事と今日ニュースになった新入職員への訓示における川勝知事の発言をまず例に見てみます。

 

「磐田は浜松より文化が高い」

「毎日毎日、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったりとかと違い、基本的に皆さま方は頭脳、知性の高い方たち。それを磨く必要がある」

 

 これらの発言から、「Aを持ち上げるためにBを持ち出してこき下ろす」論法で人や集団を評価する思考パターンを持つ人であることが読み取れます。

 比較して優劣を付けるわけです。これは差別的思考だと思いますが、この思考パターンで物を言う人は少なくありません。

 

 このことをもう少し掘り下げると、小グループ内の対人関係において「Aはすごい」と言う場合にもこの差別意識が潜んでいる場合があります。つまり言外に「A以外は良くない」とこき下ろすニュアンスが滲み出ることがあるからです。

 グループ内において、無邪気に「A君はすごいなぁ!」と褒める人がいますが、ここにいるA君以外は駄目だとこき下ろすニュアンスが出ることに対して鈍感なのではと思います。こういった無邪気(あるいは無神経)な発言に対して心がチクチク痛むことはないでしょうか?

 

 僕は称賛するとき、人というよりは物事や行動、考え方に対して「素晴らしい」「感動した」などと出来るだけ謹みを持って言うようにしているつもりです。そもそも「褒める」という行為は、上からの可愛がりの性質を帯び、その対象外の人々の劣等感を煽りかねない(心を傷つけかねない)と思うからです。ゆえに「褒める」のではなく賛意や感動を伝えるという意識を持つようにしています。大谷翔平選手は明らかにすごい!素晴らしい!ですし尊敬できる要素が多くあるように思いますが、他の人々も素晴らしいし尊敬できるのです。本来的には、どこにも上下関係はないはずです。

 

 そもそも、近現代の法治主義、自由を重視する民主主義においては、遍く人々に「法の下の平等」「基本的人権の尊重」が保証されているのです。

 これらは、個人の尊厳と個の連帯によって公が成り立つという原理原則に基づいているはずです。

 ところが、長らく社会はそうはなっていませんでした。

 

 個よりも集団に資することが求められ、集団内では序列があり、上意下達の精神が脈々と受け継がれて来ました。

 これが「封建社会の残滓」です。

 

 前近代の封建社会は縦の秩序を重んじることで成り立って来たと言えます。これは一つの秩序の形態であり、社会秩序という一点においては非常に堅牢で安定しやすい性質があると思います。ゆえに、封建社会の歴史は長いのです。

 しかし、封建社会の欠点は、支配による秩序であるという点にあります。ヒエラルキーの上位者が下位者に対して、支配的権限を持ち、しばしば個の尊厳の否定や無視が是とされ、激しく虐げられる者の方が多数であるという状況が生まれます。

 

 現在のブラック企業の風土やイジメや体罰の蔓延る教育現場などにそれが残っていると言えますし、川勝知事のような比較差別思考パターンも、この封建社会のフレームに当てはまるように思います。

 

 歴史的に見ると、封建社会は無秩序なカオスよりは良かったのです。戦国時代よりも徳川幕藩体制の方が平和で安定していたわけです。

 しかし、徳川幕藩体制下では、譜代外様親藩や身分制度などの序列化が強く押し進められました。その流れの中に、支配階級である武家への朱子学などの儒教の導入がありました。

 

 孔子を始祖とする儒教は、紀元前の東周・春秋時代に起こり、元々はアニミズム・シャーマニズムを背景とする神権政治へのカウンターであり、精霊や神ではなく人に重点を置くという点で画期的な思想だったのだと思います。この要素は、殷周易姓革命とも無縁ではないでしょう。

 

 つまり、呪術的古代から人治への転換に一役買ったという点で、儒教(儒学)は古代において先進性があったと言えるわけですが、その人治の骨子は「君主による徳治」の考え方であったように思います。呪でも武でもなく、徳によって国を治めるということです。その一環として、家族や君臣の序列を重視する思想体系が発達して行ったとも言えます。(この徳治主義は孟子によるとされる)

 

 これは安定した社会基盤を築く一つの方法論として、有効だったのではと思います。下位者が上位者を敬い、上位者は下位者を守り慈しむ、美しい関係性が理想とされるという面も有用性があったように思います。

 しかし、その美しい関係性は支配と被支配の関係でもあり、その間に不正、不満、恨み、争いなど多くの問題が生じ易いとも考えられます。

 

 しばしば悪政を敷いたと言われる秦の始皇帝は、儒教を嫌い、焚書坑儒などの弾圧を行いました。が、彼は、この儒教の問題点に気づいていたのではと思います。数百年続いた戦国時代を終わらせた始皇帝ですが、それまでの諸国に普及していた儒教が争いの元になっていると考えたのかもしれないと。諸国の内部に儒教的序列と秩序はあれど、諸国同士は対立し、融和が無かったわけです。

 

 中国統一後の始皇帝(嬴政)の法治主義は、このことが背景の一つとしてあると僕は考えています。法の下に、臣も民も治めようというわけです。度量衡と道路灌漑インフラ、郡県制の整備、篆書体と隷書体への書体統合など、中央集権的且つ合理的な統治が進められました。が、歴史が示す通り、始皇帝の死後、秦は崩壊し、再び戦乱を経て前漢が起こりました。

 前漢は儒教を重視し、呪術的儀礼も復活しましたが、長期政権となったのは、秦の残した諸制度と帝政のシステムを下敷きにしたからだと思います。文明は行きつ戻りつしながらも、前進して行くということなのでしょう。

 

 と、話が遡り過ぎましたが、儒教は政権の支配体制との相性が良いのです。君、臣、民という序列システムに通底する思想体系が築かれたとも言えます。社会の安定を志向する序列化の負の副産物として、抑圧と根強い差別意識も発生するわけです。

 

 歴史を翻って見ると、先述した通り、個の尊厳が重視される近現代の法体系と社会の在り方には、この儒教的精神性が本当は相容れないことがより分かるかと思います。

 

 つまり、現代に蔓延る、上下関係(序列)の誇示や個の尊厳を損なう優劣比較などの言動は、無自覚な儒教的封建社会の残滓である可能性が高いと考えています。

 未だに我々は、社会的態度と精神性において封建制から脱却出来ていない面があるのです。

 

 昭和・平成前半の社会に蔓延っていた感覚を今も持ち続けて行動する人に対して、単に時代錯誤だと言うだけでは、理解が深まらないように思います。

 封建社会の残滓という一視点を持つと、我々が「前時代的価値観」とするものの成り立ちに意識が及ぶようになり、俯瞰的に自他を見ることで、それぞれが自分の価値観がどの位置にあるか、生まれ育った環境による所与性を帯びた自分の感覚や経験知的な価値観がどこから来たものか、に気づき、脱却と前進への道筋を見出すようになるのではと思います。