以前から日本最古の官道と言われる竹内街道を自転車で走破したいと思っていたのでした。

 

 竹内街道の起点は奈良県葛城市の長尾神社です。

 終点は大阪府堺市堺区榎元町にある三叉路で、熊野街道と西高野街道との分岐点になります。紀州街道との分岐点を終点と捉えると、それより少し西の大小路交差点が分岐点になりますが、今回は前者の三叉路を終点としました。

 

↑今回走破した竹内街道のルートです(全長28.7km)

 

 僕は大阪側から行くので、この竹内街道の終点から起点を目指すというルートを走ったのでした。

 

 その道程の詳細を書く前に、そもそもの僕が竹内街道を自転車で走りたいと思った動機について、この稿で述べておくことにします。(かなり長文になります)

 

 これまで何度か大阪から奈良へ抜ける幾つかのルートを自転車で走っているうちに、自然と地理的な要因からルートとして竹内街道が浮上し、さらに古代史と関連する興味が湧き、いつか走破してみたいと去年の夏頃から思うようになっていたのでした。

 

 大阪から奈良へ自転車で行くには、どうしても山地を越える必要があります。

 自転車で大阪から奈良へ抜けられそうなルートを思いつく限り、北から挙げてみます。(クロスバイクやロードバイクなどのスポーツ自転車で走る場合を想定しています)

 

① 磐船神社ルート (大阪府交野市~奈良県生駒市北田原町)

② 清滝峠越え (大阪府四條畷市~奈良県生駒市北田原町)

③ 阪奈道路ルート (大阪府大東市~奈良県生駒市)

④ 暗峠越え (大阪府東大阪市~奈良県生駒市)

⑤ 十三峠越え(大阪府八尾市~奈良県生駒郡平群町)

⑥ ぶどう坂(大阪府柏原市~奈良県生駒郡三郷町信貴ケ丘)

⑦ 大和川沿いルート (大阪府柏原市~奈良県北葛城郡王寺町)

⑧ 大阪教育大前ルート(大阪府柏原市~奈良県香芝市)

⑨ 穴虫峠越え (大阪府太子町~奈良県香芝市二上山駅前)

⑩ 竹内峠越え (大阪府太子町~奈良県葛城市)

⑪ 水越峠越え (大阪府千早赤阪村~奈良県御所市)

⑫ 国道310号ルート (大阪府河内長野市~奈良県五條市)

 

 書き出してみて改めて思いましたが、こんなにもあるのですね。そのうち、これらのルートについて詳しく書いてみようと思いますが、今回はさらっとさらう程度に留めます。

 

 これらのルートには、自転車で越えるのにあまり現実的ではない、もしくは僕が走りたくないものもあります。

 

 まず、③は交通量が多く路肩もなく、山の西斜面はつづら折れ区間で二輪四輪の走り屋が多く事故多発地帯である上に、山を越えた先の東側は、南北に走る国道168号との交点が高架になっており、自転車での通行に適しません。

 

 それから、④の大阪側は関西ヒルクライムコースとしてはSクラスを誇る、サイクリストにとっていろんな意味で最難関に近いルート(いわゆる酷道)なので、基本的には除外です。オートバイ、自動車、徒歩ならまあ、といったところです。ネタで話の種として自転車で登るのはありだと思いますが、あり得ない急勾配の隘路では対向車が来たら走行しながら避けるのはほぼ不可能だったりします。上級者以外は、難所で意地を張らずに自転車を降りて押すことをオススメします。

 

 ⑤は中級者向けのヒルクライムコース、⑥は初級者向けのヒルクライムコースだと思いますが、基本、ヒルクライムコースとはきついものです。途中で押して歩くとか休憩するなら別ですが、足付き無しで登るならラクということはないです。登頂の達成感は格別ですが。特に全行程がロングライドになる場合は、後からも脚や心肺に疲労が来ます。自分のレベルに合ったルート選びが問われると思います。

 

 ⑦が唯一、谷沿いを通るので山越えがほぼ無いに等しいルートなのですが、国道25号の山間部には路肩が無く、交通量も多く危険なのでオススメはしません。とはいえ、僕は比較的よく通るのですが、すぐ50cmぐらい横(もっと近いかも)をダンプトラックが後ろから走り抜けたりするので、かなり怖いです。多少走り慣れてきても、ヒヤリとする瞬間は必ずあります。

 

 ⑧は軽い山越えがありますが勾配は緩く、体力的にはラクなルートと言えます。ただ、⑦と同様、国道165号の山間部は自転車にとって危険な区間があり、オススメしません。(僕はよく通りますが)

 

 ⑨は峠越えなので⑦⑧よりはきつい勾配の区間がありますが、ヒルクライムとしてはハードではないです。が、やはり自転車が通り易いとは言えません。初めて自転車で通った人が「死ぬかと思った」と言うこともあります。(僕自身は何度か通ってますが、⑦の方が怖いです)

 

 ⑪と⑫は僕からすると今のところ論外です。大阪市の北西エリアに住む僕にとって、千早赤阪村や河内長野市はかなり遠く、また、葛城金剛山系を越える険しさも、中級以上のサイクリスト向けと言えます。僕の自転車はロードバイクではなく、クロスバイクなのでさらにハードルが上がります。大阪府南部エリアにお住まいのロードバイク乗りの人は⑪をよく走っているかと思いますが。奈良側へ抜けると帰りも大変かと思います。

 

 僕が自転車で走ったことのあるルートは、①②⑤⑥⑦⑧⑨です。現実的なルートで通ったことがないのが唯一⑩の竹内峠でした。

 竹内峠も⑪⑫ほどではないにしろ、大阪府南部からの山越えとなり、奈良に抜けるのに若干遠回りになるので、通る機会を逸していたのでした。ただ、標高と勾配から考えて、僕が走れるルートだろうなぁとは思っていて、気になる存在だったのです。

 

 以上のことはまあ、地理的要因による動機なのですが、それに加えて、最近の僕の古代史への興味関心の高まりが竹内街道を走破したいという欲求に大きく寄与していたのでした。

 

 古代史と竹内街道について僕が興味を持ったポイントや経緯について少し書きます。

 

 日本書紀の推古天皇21年(西暦613年)条に「難波より京(みやこ・飛鳥)に至るまでに大道(おほち)を置く」とあり、この大道(おおじ・たいどう)は、飛鳥の都と難波(なにわ・大阪)を結んだ横大道と竹内街道を指すとされています。横大道は飛鳥(奈良県明日香村)から長尾神社(奈良県葛城市・竹内集落)まで、竹内街道は長尾神社から難波(大阪)まで整備された、日本最古の官道とされています。日本書紀にはそれより以前の仁徳天皇14年条に難波大道という大阪市と堺市を南北に結んだ道の記述もありますが、推定ルートこそあれ、旧道らしい風情のある痕跡は現存しないと思われます。

 

 また、竹内街道は百舌鳥・古市古墳群(5世紀築造が多い)のエリアと二上山西麓の4世紀の古墳群が多いエリアを通るので、推古朝以前の古墳時代前期から飛鳥と難波を往来する人々は、渡来人も含めて多かったと推測出来ます。推古朝で官道として整備されたのは、小野妹子らの遣隋使が大陸からの使者を飛鳥に招来するために立派な道路が必要だったからではと思います。また、大陸からの使者だけでなく、既にシルクロード交易ともこの竹内街道が無縁ではなかったと言われていますが、詳しくは知りません。

 

 推古朝と言えば聖徳太子ですが、当時、法隆寺のある斑鳩と四天王寺・難波津(上町台地北部の沿岸)の往来には、竹内街道より北側の大和川の水路そのものか川沿いの竜田道などが使われたようです。ただ、大阪と奈良の境界区間、大和川の山間部は地すべりの規模と多さで名高い「亀の瀬」という場所もあり、治水や土砂災害の面で難があったとすれば、あまり常時安全に通れるルートではなかったかもしれません。そこから飛鳥へも往来があったとは思いますが。

 

 竹内街道は現在まで街道・道路として機能しています。

 飛鳥時代には壬申の乱の進軍路としても、中世には伊勢街道の一部として、1890年には府県道として、1974年には国道166号を含む道路として、利用され続けています。つまり、現在に至る1400年の歴史を持つ現役の古代官道ということで、これは率直にすごいなと。

 

 そういうわけで、終点から起点まで自転車で走ってみたいと思ったのでした。

 しかしまあ、一応地元と言える地域にあるのに全く通ったことがなく、これまであまり意識したこともなかったのでした。たぶん、僕と同じ大阪市民・府民でも、歴史的に重要な割りにそれほど関心の高い人が多くないのではと思います。

 

 昨年ぐらいまでは、古い街道を自転車で走ってみたいと思ったこともなかったのです。これはもう、僕の日本の古代史への関心が薄かったのと、街道のイメージが東海道や中山道、伊勢街道など、長大で険しいものだったからだと思います。

 

 古代史への僕の関心は、昨年ぐらいから急速に高まりました。日本の古代史好きのミュージシャンとライブで共演して知り合ったのがきっかけだったと思います。その方は、古代史座談会というゆるい愛好家の集いを主催しており、興味があったら来てみないかとお誘いがあり、行ってみたらすこぶる面白かったのです。年齢層が近い人が多くて居心地が良かったというのもありますが。

 

 それまでの僕は古代史と言うと、日本よりも世界史の方に興味があり、そちらの知見はそれなりにあったと思います。  

 一方、日本史への興味関心は、奈良・平安時代以降に偏っていました。

 古代史座談会に参加してみて、日本の古代史について僕の知識がとても薄く、しかもその知らない要素に面白さが沢山詰まっていると感じたのは新鮮な驚きでした。また、世界史と関連付けて日本の古代史を国際関係史的に捉えることにも強い関心が湧きました。

 

 例えば、邪馬台国の時代(3世紀)について魏や呉、日本各地の諸集団との関係など、何が判明していて何が判らないのか、4世紀が文献資料のない空白の時代であること、5世紀の古墳時代にヤマト王権がどのように生起し隆盛したのか、6世紀末の推古朝から7世紀の天武朝にかけて皇族と各豪族がどのように結び付いて律令国家の形成に向かって行ったのか、など、単に教科書に載っている内容だけでなく、最近の考古学上の発見と文献上の歴史学の照合の進展にもかなりワクワクするものを感じるのです。僕らは(主語がでかい)、昔のことを何も知らなかったのでは?と。

 

 僕が最初に古代史座談会に参加した時は、折しも富雄丸山古墳(4世紀後半築造)から巨大な蛇行剣が発見されたニュースが流れたタイミングでした。ニュースを見た時はふーんというぐらいの関心だったのですが、空白の4世紀を埋める発見であることや、その蛇行剣が東アジア史上類を見ない大きさと形状を有し、当時の日本で鉄の鍛造技術の飛躍的な発展があったことを示している、といったことを知ると、俄然興味が湧いて来たのでした。

 

 となると、でかいだけで大して見どころがないと思っていた百舌鳥・古市古墳群(世界遺産)など、古墳を見る目も変わって来ました。いやはや、僕のつい最近までの古墳への眼差しの何と酷かったことよ……。

 

 とまあ、書き出すとキリがないのでこの辺りにしておきますが、そういった僕の古代史への興味関心の傾倒の流れと、サイクリングにまつわる地理的な関心とが重なって、竹内街道を走りたいという動機が生じたのでした。

 

 次回は、竹内街道の終点(今回のスタート地点)までの道程である旧熊野街道を八軒家浜から18.6km走った詳細を備忘録的に書きます。

 

 

以上