平家物語で白河院が自分の意のままにならぬものとして「賀茂川の水、双六の賽、山法師」を挙げたくだりは有名ですね。それだけ院政が上手く行っていたという比喩として、いかにも芝居掛かっていますが。

 

 水害は自然、賽の目は運、山法師は埒外の人、といったところでしょうか。

 

 僕が自分自身の暮らしにおいて「ままならぬ」と今感じているものは、天候に左右される持病、自分自身の行動、集客と受注、あたりです。

 

 天候と持病はある意味で自然のものです。多少の対策は出来ても、抗えないときはあります。

 自分の行動(主に生活態度)については、気分で変えてしまうことが多くなる時期があるのを問題に感じていて、自由度が高い程、秩序を守るのが難しくなる波があり、しばしばままならさを感じます。上手く出来る時期の波もあるのですが。

 集客と受注はもう、「人」ですね。人を動かすのは難しいということです。ままならないけれど、長い目で見て、誠実に接していれば良いように整理されて行くことなのかもしれませんし、繋がりを選択的に作り続けて行く不断の努力が必要とも思えます。いずれにせよ、逃れ得ない大変さがあります。いや、そもそも人を意のままにしようだなんて傲慢です。同じ方向を向いて共に働くというような協働的な流れを作る方が望ましいとも思います。人に対して操作的にならず、相手も操作されている感触を持たない、そういう対等な関係性の中で相互利益を生み出して行くというか。商いと言えど、対人関係の操作性には留意が必要だと、何となく思っています。

 

 白河院と大きく違うのは「運」の要素を僕があまり気にしていないところでしょうか。

 白河院はある意味、上に挙げた3つ以外、つまり自分自身の行動については「ままになる」と感じているのでしょう。

 

 自分を御することが出来るだなんて、相当デキる人です。

 本当にそう言ったのかは分かりませんが。