イスラーム暦の新年はあと20日くらい先なのですが、

本日9/11は、「犠牲祭(イード・アル・アドハー)」の前日でした。

 

年2回のイスラームのお祭りのうち、イスラーム暦12月に来る犠牲祭。

幸運な人はメッカへの巡礼を果たし、

それ以外の人たちは家畜を屠って神様に捧げるイード(祝日)です。

我が家の前にも、明日捧げられる羊がおりました。

 

 

「犠牲」というと大仰ですが、

こちらのお祭りは、まるで日本のお正月のよう。

前日には、お客をもてなす準備と買い出しに大忙し。

当日が始まると、まずは家畜を屠って貧者に分け与えた後、

家族や友人同士で招き合い、新しい服を着てあいさつに回ります。

 

前日の街は「大晦日」を思い出させる賑わいで、

通りのお店は夜11時でも大盛況。

その様子は大晦日のアメ横に何だかそっくり、

街中でどこからともなく流れるクルアーンの朗唱は

某放送局の「ゆく年くる年」のような趣があります。

 

(PM11時半、エルサレムの繁華街・サラハッディーン。)

 

明日になれば、お店は全部シャッターを閉め、

人々はしずしずとモスクへお祈りに向かい、

街は静かで神聖な雰囲気に包まれるのです。

道々に面したドアの向こう側では

親戚が集まって美味しい料理に舌鼓を打ち、

コーヒーやお茶の入った小さなカップを手に談笑するのでした。

 

「Eid Mubarak!(祝福に満ちたイードを!)」

「Aleena w aleeki(私たちの上にも、あなたの上にもね)」

 

道端で交わす言葉ひとつでも、

人々のうきうきした気持ちが伝わってきます。

穏やかで素敵なイードになりますように。

Kull 3aam w into b alf 5eer.

週に2回、イスラエル側でヘブライ語の語学学校に通っています。
仕事が8〜16時で、授業は17時半〜20時半の3時間。
Hillel Streetから一本入った、西エルサレムの繁華街の近くにある、
Ulpan Milahという学校です。


(9年ぶりに触った、初級の教科書。もうすっかり忘れかけていました…。)

どうしてヘブライ語を勉強するのか、という理由はさて置き、
授業の話をするならば、クラスメイトのほぼ8割はパレスチナ人です。
先生はもちろんイスラエル人(そして男性)。
そんな中でアジア人、かつアラビア語でヒソヒソ周りと話している私は
NGO職員であることもアラビストであることも既に周知済みですが、
多分ちょっと浮いています。


先生はおそらく私より若いんじゃないかと思われる、映画マニアの男性ですが、
彼の反応が「微妙だなぁ!」と思った局面も何度かあり、
微妙な緊張関係を勝手に感じています。

例えば既婚/独身という単語を習ったとき。

先生:「マイ、あなたは既婚ですか?」
なみ:「はい」
先生:「……既婚ですか?」
なみ:「3年前に結婚しました」
先生:「……。」←びっくりした顔で沈黙


なんですかその沈黙!

沈黙のまま次の人に質問が回りました。
せめて何かジョークでも言ってください!笑



更に彼が反応に困っていたのは欠席予定を伝えたときで、

なみ:「先生、わたし今週と来週は授業に来ません」
先生:「あー、どこかに旅行でもするんだね?」
なみ:「はい、ラーマッラーとガザに」
先生:「え?」
なみ:「ラーマッラーとガザです」
先生:「……。」←凍ってる


扱いづらい生徒ですみませんね。



そんなんでも、2週間のブランクを経て久々に出席したら、
先生が授業中にガザの話を聞いてきました。

先生:「ガザにはどれくらい行くの?」
なみ:「月に2回くらいです」
先生:「何日くらい行くのかな?」
なみ:「だいたい3日です」
先生:「ガザで寝てるってこと?」
なみ:「そうです。パレスチナ人との仕事で」


先生:「…そう。それは大事な仕事だよ」



フツーのイスラエル人であるように見える彼の口からぽろっと出た
そんな言葉を聞いて、
「そういえばこの人の仕事相手の8割はパレスチナ人なのだった」
ということを改めて思い出しました。

本来、多くのヘブライ語教室では政治絡みの議論が
暗黙の了解で御法度になっていて、
ムスリムやモスクという単語は出れど、
西岸だガザだパレスチナだなんて単語が、初級の授業で出てきたことはありません。

それでも授業でそれらに触れた先生を見て、
「きっと、いろいろと生徒にも考えさせられてきたんだろうな」と
これまた勝手に想像する私なのでした。

うーん、もうちょっと彼とも話せるようになりたいな。
授業は残り3週間。勉強をもうちょっと頑張って攻めたい(?)と思います。
エルサレムに赴任して2.5ヶ月ちょい。
ここまでの自分の私事的進捗に関しては、正に「散らかして」いるのが現状です。


(刺繍は好きなものを縫い散らかしている。)


私にとっては、短文を書くこともモチーフを縫うことも手段の一つに過ぎず、
ひとつひとつをやってみては、それで生まれる内外での化学反応を見て
自分の中に刻み込んで反芻し、
目的の形を削り出す一助にしているように思っています。

* * *

目的のことを考えるとき、私の頭に浮かぶイメージがあります。
それはミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡」に出てくる、
失われてしまった「ある言葉」を探しながら当ての無い旅を続ける
奇妙な一座の行列です。

彼らは、行く先を知りません。どこに向かっているのかを把握していません。
世界がつながるための「ある言葉」が本当に重要だからこそ
それを探して旅を続けていますが、
一方で行列の一人が、こんなようなことを言うのです。
「私たちの旅路こそが、『ある言葉』を綴り出している」

道端で偶然に彼らと出会い、それを聞いた貴婦人は、
パーティーへの参加を取りやめて、来た道を戻ります。
「このことを知らせなければいけない」と。

* * *

失われてしまってはいけない、大切な概念を人間たちが希求するときに、
私はどこの立場にいたいのだろう?
その身をもってして概念を具現化しようとする人々の列に加わるのか、
それともそれを伝えることで、価値を広め、人々の列を増やす役割なのか。


多分、ちょびちょびと一緒に歩いたりしてみながらも、
どちらかといえば後者なのです。
だから、せめて力になれるように書きたい。ちゃんと書きたい。
当事者ではない身でも、語る権利に近づきたい。
もしくは、私を含めた全ての人が当事者になるような視点を提供したい。
でもそんなスキルも自信も無いから、手探りでぺたぺたと、
こんなかんじかなあと触っては綴って出しているのでした。


そしてここで、ある本の一節も同時に思い出します。
「あなたが相手に影響を与えられるのは、
 相手があなたに影響を与えていると感じたときからである。」


それを実践できるのが市民であり、
それを正に実践できる場が、市民のメディアなのだろうと思っています。
私は、誰と影響を与え合いたいのだろうか?
何をどうしたくて、どれを描くことで、どうやって働きかけ、
相手がどうすることを信じて待ちたいのだろう?


これはパレスチナ問題だけでなく、たくさんのことについて考えるべきことです。
自己流で大物に取りかかる前に、ここをシャープにしたい。
ここでの滞在期間内に間に合うのか自分でもハラハラしながら、
少し自分の中身を見直しています。
しばらくブログを留守にしておりました、ナミキです。
ちょうど日本から出張者の皆さんがいらっしゃっており、
毎日あちこちへ移動しておりました。
今日でひと段落! 寝るぞ! 本読むぞ! 友人達にも会いにいこうっと。

さて、同僚が「ビールゼイト大学見てみたい!」というので、
先日、弾丸でヨルダン川西岸のビールゼイト村へ行ってまいりました。


(愛しの母校。)


(エルサレムから直線距離で15km。壁と検問と渋滞で移動に1.5時間かかった…。)

ビールゼイト大学は、私が2006年から2007年にかけて留学していた大学です。
パレスチナの高等教育機関としては最高峰?を誇っている私立大学で、
外国人向けの「Palestine and Arabic Studies(PAS)」を開いています。
NGO職員やジャーナリストも集まることもあり、
当時もなかなか濃密なコースでした。特にメンツが。笑

道中で外大アラビア語科の可愛い後輩たち(日本人女子)とバッタリ。
「いまストライキで大学が開いてないんですよ〜」という情報を得つつも
ま、とりあえず行ってみよう!と思って行ったところ、
大学はゲートが封鎖されており、南京錠で鍵がかかっていました。

しかし向こう側にはたむろしている男の子たち。
「入れる?」「もちろん!」というやり取りの後で通された敷地内には
テントとマットレスがありました。笑
(日本にもこういう時代があったんだよねぇ…。)



なみ:「で、何日ここで頑張ってるの?」
学生くん:「1週間かな! 1ヶ月は頑張るよ」
なみ:「何が達成されたらスト止めるの?」
守衛さん:「学費の値上げが中止になったらだね」


聞けば、今年9月からの学費が在籍生は2〜3%、新入生は6%上乗せされるらしく、
学生たちが反対運動としてストを実施している、ということでした。
先生たちは先生たちで、2016年1月から実施される約束だった給料の1.4%増額が
不履行のまま。それでストに賛同しているそうです。

なお、メディア専攻の男の子の場合、
学費は年間で約2,000ヨルダンディナール、日本円にして30万円程度。
ストに参加している守衛さんは
「うちの娘も去年、この大学を卒業したんだよ!
 この学生たちは、自分の子どもみたいなもんだ。
 値上げで困る学生たちの親は、俺だったかもしれないだろ?
 だから俺も参加してるんだ」
と誇らしげ。

学生さんたちも、
「この大学は、俺たちの人生の一部なんだよ。愛してるんだ。
 友人も先生も、もちろん守衛の皆だって、大事なんだ。
 ま、大学の経営側は大嫌いだけどな!」
と熱くコメントしてくれました。
うん、私もビールゼイト大好きだよ。私の分までどうぞよろしくお願いします。



ジュースとコーヒーをいただいているうちに
「飯を食うまで帰るな!!」という話になり、
実際に錠がかかったゲートから出られず事実上軟禁状態で(笑)
お昼ご飯までご一緒させていただきました。



(炊き込みごはんとチキンとヨーグルト。)


なみ:「えっ、これ誰のおごりなの?」
学生くん:「レストランだよ! ラーマッラーにサーア・サークルがあるだろ?
      あそこのビルの上のほうにあるレストランが、支えてくれてるのさ。
      俺たちが沢山の人に支えられてるのが分かるだろ?」


SYNDIANさん、すみません。通りすがりの日本人2名もいただきました…。
今度ちゃんと食べにいきますから!



おそらく今月いっぱい、200名ほどのスト実行委員たちに支えられ、
蚊やヘビ(!)に悩まされながらも
30人ほどの男子学生たちが大学構内に寝泊まりしているものと思います。
みなさま、お立ち寄りの際はぜひ、ジュースでも差し入れしてあげてくださいませ。


なお、パレスチナ自治政府から大学へ約束したまま支払われていない補助金の
実際の振込が、ストの落としどころと思われます。
その額200万シェケル、約5,500万円です。
どこもかしこも苦しい資金繰り。みんな、頑張ってね…。


(大学に寝泊まりする、18歳から28歳・12人の若者たち。)
「AcademicとPractitionerの橋渡しをしなければならない。」
最初にこの問題提起を聞いたのは、確か2008年の頭のことだったと思います。
東外大、平和構築・紛争予防コースのイベントのお手伝いをして
海外の研究者たちが集まるシンポジウムに居合わせたとき、
私の恩師が、この言葉でプログラムを締めくくったのでした。


それから8年、この問題提起は私の心の中にずっと残っていました。
私自身は在学時代から、大学のアラビア語の先生が、
「あなたはホント、活動家だよねぇ。
勉強はいいから、そのまま行ったらいいよ」と言うくらい
学問的なアプローチと縁遠い道を突っ走って来ています。

一方で、なんとかしたい問題に切り込めば切り込むほど、
「あぁ、もっと勉強しなくてはならない」とも悩みました。
研究する人は多様性や深みを社会に提供する責任を負っているかもしれませんが、
実践する人には、誰かの人生に対する責任がダイレクトに発生します。
それを、場当たり的な感情やモノの見方で乗り切ってはいけないのでした。


*  *  *  *  *


支援を仕事にするべく現地に来ている今も未だ、
パレスチナ問題に関わる活動家的な自分が、
どこから勉強するのが自分と社会のためになるのか、悩み続けています。

それでも、この2ヶ月の間、
研究・行動する日本の人たちと話して個人的に思ったことがあります。
それは、
「渦中の人々に会いに行かず、声に耳を傾けず、葛藤しないのであれば
 研究者だろうと実務者だろうと、私には結局薄っぺらく見えるなぁ(※)」
ということでした。
つまり、人を分類する軸が、自分の中で変化したのです。
(※実例に遭遇した訳ではありません、念のため。)



イスラエル建国以前から70年以上もくすぶっているパレスチナ問題は、
すでに沢山のジレンマで雁字搦めで、万能の解決策などありません。
問題を一定の解決へ導きたいと願うなら、このジレンマをほぐす努力が必要になり、
それはつまり、何をどう優先するか、という葛藤と表裏一体だと思います。

そして何をどう優先するか、という選別と決定を行う際には、
本来は「当事者の声」が一番大切になると思います。
なぜなら、彼らこそが、起こる事象の責任を引き受ける人間になるからです。

一方で、当事者だって一枚岩ではない。
日本人、学生、起業家、主婦等々もそれぞれ一枚岩ではないように
パレスチナ問題においても当事者の色々な意見が立場があるのが当然で、
当事者だからこそ分からないこともあります。
これらに一つひとつ向き合うことも結局、葛藤へと繋がっていきます。


声を聞き、葛藤し、選び、行動して、また葛藤し、調整し、行動していくこと。

このプロセスを重ねて行く人こそが、私には一番
「パレスチナ人/イスラエル人の味方」
であるように思えます。
そこでは研究者だ実務家だの「立場」の違いなんて、結局どうでもいいのでした。
また、ときに竹を割ったようにスパーンと発信される物事の裏に、
このプロセスが隠されていて欲しいと、一個人として切に思います。



以上、雑感でした。
あちこちで講演し、執筆し、時に映画のパンフ等にも書かせていただいていますが、
パレスチナ・ガザ地区は10km×40kmの「監獄」です。
東京23区の60%ほどしかない地域に180万人が暮らしていますが、
陸の国境線は、イスラエルとエジプト政府によって封鎖されています。
海・空は、彼らの自由になりません。これも政治が背景にあります。
沖合10kmほどより先に進めばイスラエル軍に撃たれますし、
日本も支援して出来上がった空港は、イスラエル軍に壊されたままです。



(参考:ハフポストさん
 【図解】もしガザ地区が東京にあったら?(パレスチナ情勢)から借用。
 ガザ地区の長さは、横浜から北千住くらいだそうです。分かりやすい記事に感謝。)


私が講演に行く時は、皆さんに必ず聞いています。
「例えば、陸海空を封鎖されたとしたら、
 あなたの街はどうなりますか?」


「留学や、好きな分野の勉強ができない」
「仕事の数が足りなくなる」
「資源が足りずに産業が発展しない」
「発電所から電気がこなくなる」
「地域が監視社会になる」
「ディズニーランド(好きな場所)に行けなくなる」

等々……いただくのはいつも、的を射た答えです。
これらは正に、ガザ・ひいてはパレスチナの現状だと思います。
(発電所からの電気なんか、1日5、6時間しか各家庭に届かないです。)


2、3年おきに起こる軍事攻撃、資源輸入や輸出の制限も相まって、
ガザの失業率は43%、若者層に至っては60%。
例え高等教育を受けたとしても、
得られる仕事は大体、レストランのウエイターかタクシー運転手です。

そんな状態で、「勉強をしろ」「夢を見て」という方が難しい。
どんなに夢を描いたって叶わないのなら、
未来に希望をもつことすら辛いはずです。
私がガザ生まれだったら、希望を持つのは止めると思います。
自分の心が傷つくだけだから。

そして私はガザの人に、そんなに簡単に
「希望をもって」「未来を描いて」なんて言えません。
「じゃぁあなたは何をしてくれるの?」と問われて、
「この政治状況の変化を訴えてる」と答えても、
彼らの生活は何も変わらない。
彼らが欲しいのは、ただの言葉じゃない。未来への展望をもたらす変化です。


* * *


8月半ば、先週のことですが、
「ガザ地区で日本人グループが若者の起業を支援している」というニュースが
各紙で(多分オリンピックや終戦記念報道の裏でひっそり)流れました。

若者を対象にしたビジネスコンテストをガザで実施して、
優勝したグループに資金を提供する、というプロジェクトです。
(通称:ガザチャレンジ

優勝したのは、2つのグループだったそうです。
発電所の灰から高性能な建材を作ろうとしているグループと、
重い荷物や車いすの輸送ができるキャリアー・車輪を作ろうとするグループ。
私はコンテストを見ることは出来ませんでしたが、
各グループが本当に真剣に起業を志し、
参加者が本当に真剣に優勝者を選び、讃えたことは伝わってきました。


この動きを見ていて、
「あぁ、すごいことをやってのけたなぁ…」と思いました。
そして、もっと注目を受けて欲しいし、ずっと続けて欲しいと思いました。
マイクロクレジット事業はこれまでにもありましたが、
今のガザでは、コンテストが注目を浴び、人々に知られることにも意味があります。
優勝チームはいずれ「ガザでも何かができる」ロールモデルになるだろうし、
来年のコンテストを目標にして、
若者たちも日々の研究や仕事に張りが出るはずだからです。


もちろん、ガザの問題の根底には「イスラエルによる封鎖」があります。
だからといって、封鎖解除を唱えるだけで、
政治が変わるのを座して待つことに、私は強烈な違和感を感じます。
今を生きる若者たちに、人生は二度は巡ってきません。
夢を描き、磨いて、自らの力で勝ち取ろうとする人々がいるならば、
少しでもいいから行動で共感を示したい。そう、思っています。


長くなりましたが、もし共感してくださった方がいらっしゃれば、
是非プロジェクトを支援してあげてください。
運営チームの方々を存じ上げていますが、とても頑張っています。
そして、更なる改善の余地があります。
ドナーになって、叱咤激励してあげてください。
私も、少しだけですが支援させていただきました。
そして、言いたいことを伝えています。笑
(言いたいことを言った上で本当に物事を変えられるのは、
 本気で関わっている人だけでしょう? 私はそう思います。)

【支援先はこちら】

「世界最大の監獄?パレスチナ、
ガザに眠るアイデアを形にしたい!」




参考:これまでのメディアまとめ
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◆朝日新聞/朝日新聞デジタル(2016年8月12日)
失業率4割超、ガザで起業支援コン 日本の若者ら開催

◆時事通信(2016年8月12日)
若者に自分で生きる力を=日本人主催でビジネスコンテスト-ガザ

◆朝日新聞/朝日新聞デジタル(8月9日)
(世界発2016)IT起業、ガザに光 境界封鎖され失業率4割超


◆NHK(2016年8月12日)
ガザ地区で日本人グループが若者の起業支援

◆NHK World(2016年8月12日)
Japanese group to aid young entrepreneurs in Gaza
世界を旅すると、時に
「チンチャンチョン」「チャイナー!」
という声がかかり、イラッとする人もいるかと思います。

パレスチナでもおんなじです(特にやんちゃな若者層)。
私も9年前は「あのね、日本って国があってね」と訂正して回っていましたが、
最近は面倒で、無言スルーか「ニイハオ」と返しています。笑
似非中国人をやっております。中国の皆さんすみません。
だんなくんが中国人なので、まぁニイハオと言う権利くらいはあるだろう。

そんな私でも、ちょっと「それはあかんだろう」と思うのが、
「メイド・イン・チャイナー!」というシャウトです。
先日友人がげんなりした顔で「うざいよね…」と言っていたので、
彼女のためにも、おふざけの過ぎるヤングたちは
きっちり叱ってやらねばと思っていました。
ちょっときみたち、職員室に来なさい。

そしてその機会は、意外に近所でやってきた!


最近引っ越したばかりの家を出て、数メートルの地点。
若い男の子たちが溜まっていて、その中の少年の一人が言ったのです。
「メイド・イン・チャイナー!」


来たな! 飛んで火にいる夏の虫め!
という訳でお説教タイム開始です。


なみ:「ちょっとそれ、どういう意味なの?」
少年:「………。」←ちょっとびびっている
なみ:「どういう意味なのって、聞いてるのよ」
少年:「………。」
青年一味の一人:「アラビア語喋るの?」
なみ:「勉強したのよ。英語と日本語とアラビア語を喋るの。
    ちなみに中国語は喋らないけど、私のだんなは中国人よ」
少年:「………。」←気まずそうにちょっとうつむく

なみ:「でね、あなた、それ意味分かって言ってるんでしょうね?
    それ、『良くないもの』『品質の悪いもの』って意味よね?
    他者に敬意を払う言葉じゃないでしょう?」
少年:「………。」←こっちを見ない
青年:「そ、その通りだね…代わりに謝るよ…ごめん…」

なみ:「私は慣れてるからいいけど、
    怒る人、いるのよ? 私の友人だって怒ってるもの。
    以降、やめときなさいね。じゃ。」




以降は、近所で「チャイナ」のチャの字も聞きません。
しおらしくなった該当少年をはじめ、他の少年たちもきっちり挨拶してくれるし、
もう少し大きい青年たちも挨拶してくれるようになったので、
最初にちゃんと言っておいて良かったと実感。よしよし。

引き続き、異国の地で正しいあいさつ運動に励みたいと思います。
以上、風紀委員会エルサレム支部からお送りしました。
「いったいあなた、いくつの言語を喋るの?」

1週間に2回は聞かれる質問ですが、
自信をもって「3つ! 4つめを勉強中なの」とは
答えられない自分がいます。

仕事の会議は英語(海外で生の英語を真面目に習得したことがない)、
日常会話はアラビア語(9年前に習得した後さびついてる)、
終業後の勉強はヘブライ語(リアルにビギナー)。
日本人との会話はともかく、周りの人との会話が現在絶賛混乱中です。

英語を喋ったあとにはアラビア語が出てこないし、
ヘブライ語を勉強したあとは英語が出てこない。
アラビア語を喋りまくった後は、ヘブライ語なんて一言も出ません。

到着してから2ヶ月弱。
仕事とは別に、個人的に目標にしていたアラビア語習得については
「意外にアラビア語の語彙が残ってた!」←はじめの頃
「いや、やっぱり忘れてる…喋れない…恥ずかしい…」←2週間目
「喋れなくたって突っ込んで直されればええやん、行け行け!」←3週間目
「いや、聞いて分かっても喋れない…めっちゃ中途半端だ…」←いまここ
という具合で、2回目の言語スランプを迎えています。

そしてイスラエルの市民運動に興味が湧いている今日この頃、
もっとヘブライ語を喋れるようになりたいのですが、
英語でだってもっと主張できるようになりたいし、
アラビア語だってもう少し細やかに言葉を紡げるようになりたいです。

いや、なるんだ。
この、「私もっと伸びる!言語のばせる!」という感覚と、
恥を捨てて取り組める環境こそが
贅沢品だなぁ…と思う今日この頃なのでした。
しばらくぶりに、「学生になりたいな」と思っています。勉強も研究もしたい。



今日の写真:ナーブルスの教会。
7月の頭頃、友人Mさんにくっついて、彼女の友人の街を訪ねたときのこと。
「我が家が大変なことになっているから来て欲しい」
と、通りすがりの親子に声をかけられました。

パレスチナ人のムハンマドさん、40歳。エルサレムのシルワーン在住。
彼が「大変なこと」と言うのは、エルサレム特有の入植者問題のことです。

入植者。
ざっくり言えば、本来はパレスチナ人のものである土地や家に住む
イスラエル人のことですが、問題はそのプロセスや、パレスチナ人の権利です。
例えば、嫌がらせを続けてパレスチナ人をうんざりさせた後、
破格の高値で家を買い取ったり、借りたりする過激なイスラエル人がいるのです。
(彼らにはイスラエルの一般市民もドン引きしていたりする)

彼の場合は3年間、家の上階に住む入植者に悩まされ続けていました。
同じ建物の5部屋をイスラエル人の入植者が買い取り、
パレスチナ人はムハンマドさん一家だけ。
彼を追い出したくて、入植者達が毎日のように嫌がらせをするのだそうです。

例えば彼らは、上階からゴミを捨てる。家に押し入ってくる。つばを吐きかける。
隣から2部屋を奪い取る。足を踏みならす。敷地内に入り、朝4時から大騒ぎする。

それでも、ここはムハンマドさんが選び、一生懸命働いて買った土地。
150年ほどの歴史をもつアンティークの家に、
手をかけ、時間を費やして、整えてきた大切な家なのでした。

「毎回警察を呼ぶけれど、嫌がらせは止まないんだ。
 何とか支援をくれよ。どんな支援でもいい。金でも、服でもいいんだ。
 NGOだろ? 何か手はないのか?」


最初に訪ねた時、彼はとにかく「Musa'ade(支援)」を求めていて、
自分の予算なんか持たない私は
「ごめんなさい、私はNGO職員だけど、そんなに簡単に支援はできないの」
と謝り倒していました。
NGOだって、企業と同じで年間計画や目標があります。
資源だって限られているし、あらかじめ活動や焦点を決めているのです。
でも、家に帰った後も彼の表情と言葉が私の頭の中をぐるぐるしていて、
「なんで私は、困ってる一家族すら何とかできないんだろう?」
「外国人ができることって、一体なんなんだろう?」
と考え続けていました。


また訪ねたら、やっぱり彼に支援支援と言われるんだろうか?
この無力感と苦しい気持ちに、どう折り合いをつければいいんだろう?


気が重いなぁと思いつつ、二度目に彼らを一人で訪ねた今日。
改めて話を一から聞き直して、何にどうお金がかかるのか聞き、
何に困っているのかを洗い出しました。
団体は難しいけど、私が友人として動くから、とハッキリ伝えて向き合ってみたら、
「支援」という言葉は最後には消えて、問いかけに変わっていました。


「やれることは全部やったんだ。
 あとは自分に何ができるのか、教えて欲しい。
 俺は当たり前の人権がほしいんだよ」


そう問いかけてくる彼の、強固な意志と諦めの混ざった目を見つめながら、
NGOとしてではなく、彼の友人として何ができるのか、考えています。
うーん、まずは監視カメラかなぁ。。。秋葉原で調達するか。



(取材ノート。)


※ムハンマドさん、テレビに出てました。(アラビア語だけど)
高校の同期が、
東葛飾高校の1年生だった私の自己&他人紹介を送ってくれました。
(社会研究部のページで、当時は生徒会副会長だった。)

shaken

ああ、優柔不断さも他人からの印象も、
大して変わらないですね。笑
三つ子の頃は、浮き輪を付けると
勝手にバシャバシャ沖まで行っちゃう子だったらしいです。