「AcademicとPractitionerの橋渡しをしなければならない。」
最初にこの問題提起を聞いたのは、確か2008年の頭のことだったと思います。
東外大、平和構築・紛争予防コースのイベントのお手伝いをして
海外の研究者たちが集まるシンポジウムに居合わせたとき、
私の恩師が、この言葉でプログラムを締めくくったのでした。


それから8年、この問題提起は私の心の中にずっと残っていました。
私自身は在学時代から、大学のアラビア語の先生が、
「あなたはホント、活動家だよねぇ。
勉強はいいから、そのまま行ったらいいよ」と言うくらい
学問的なアプローチと縁遠い道を突っ走って来ています。

一方で、なんとかしたい問題に切り込めば切り込むほど、
「あぁ、もっと勉強しなくてはならない」とも悩みました。
研究する人は多様性や深みを社会に提供する責任を負っているかもしれませんが、
実践する人には、誰かの人生に対する責任がダイレクトに発生します。
それを、場当たり的な感情やモノの見方で乗り切ってはいけないのでした。


*  *  *  *  *


支援を仕事にするべく現地に来ている今も未だ、
パレスチナ問題に関わる活動家的な自分が、
どこから勉強するのが自分と社会のためになるのか、悩み続けています。

それでも、この2ヶ月の間、
研究・行動する日本の人たちと話して個人的に思ったことがあります。
それは、
「渦中の人々に会いに行かず、声に耳を傾けず、葛藤しないのであれば
 研究者だろうと実務者だろうと、私には結局薄っぺらく見えるなぁ(※)」
ということでした。
つまり、人を分類する軸が、自分の中で変化したのです。
(※実例に遭遇した訳ではありません、念のため。)



イスラエル建国以前から70年以上もくすぶっているパレスチナ問題は、
すでに沢山のジレンマで雁字搦めで、万能の解決策などありません。
問題を一定の解決へ導きたいと願うなら、このジレンマをほぐす努力が必要になり、
それはつまり、何をどう優先するか、という葛藤と表裏一体だと思います。

そして何をどう優先するか、という選別と決定を行う際には、
本来は「当事者の声」が一番大切になると思います。
なぜなら、彼らこそが、起こる事象の責任を引き受ける人間になるからです。

一方で、当事者だって一枚岩ではない。
日本人、学生、起業家、主婦等々もそれぞれ一枚岩ではないように
パレスチナ問題においても当事者の色々な意見が立場があるのが当然で、
当事者だからこそ分からないこともあります。
これらに一つひとつ向き合うことも結局、葛藤へと繋がっていきます。


声を聞き、葛藤し、選び、行動して、また葛藤し、調整し、行動していくこと。

このプロセスを重ねて行く人こそが、私には一番
「パレスチナ人/イスラエル人の味方」
であるように思えます。
そこでは研究者だ実務家だの「立場」の違いなんて、結局どうでもいいのでした。
また、ときに竹を割ったようにスパーンと発信される物事の裏に、
このプロセスが隠されていて欲しいと、一個人として切に思います。



以上、雑感でした。