脱★根暗宣言 -24ページ目

煮詰まる

よーし沢山寝たし、これで大丈夫

疲れもとれて明日からまた頑張ろうと思った矢先に

また疲労感がやってきて頭の中が真っ黒になる

あーまだ休憩が足りなかったかと思って

何とか頑張って休もうとするのだけど

休もう休もうという気持ちだけが空回りして

結局なんだか休めないまま休んだ気にだけなって

でもやっぱり回復しないから

すぐに、あーまた疲労感がやってきたの繰り返し




何がいけないんだろうか

色々と原因はわかっているんだけど

いつものごとく感覚的な納得感が伴わないため

具体的な改善に繋がらないまま

宙ぶらりんで動けないままいる感じ




新しい環境

忙しいといえば忙しいけれど

学校の中で一人で勉強したりぼーっとしたりする時間が多い

無駄に色々と考えてしまう

勉強もはかどらないし

話す相手もいない

ただ煮詰まってるだけなんだろう

話したら一瞬でどうでもよくなることなんだろう




私高校時代どうしてたんだっけな

ひたすら勉強で忙しくて覚えてない

どうやって我慢するんだっけな

最近のエントリーは後悔するものばかり

消してしまいたい

でも世の中自分の思い通りにいかないことばかり

だから我慢も必要なんだって

我慢の仕方が間違ってるのかもな

これもいつものことだ。




私は何を求めているんだろう

何を欲しているんだろう

それは本当に私が欲しいものなのか

それとも世の中が私に求めるように言っているだけなのか

実験台

感情の波がやばくて全く手に負えない。


でもそういう感情の波を自分で観察して


記録しておくっていうことは、きっと自己理解だけじゃなくて


長期的に見て他者理解につなげていける気がする。


自分が辛いときの気持ちをつづっておいて


後々辛くて悩んでいる人がいたとして


しかも自分の気持ちはその時落ち着いていて


相手の気持ちの理解が難しい場合でも


自分の気持ちを読み返して


少しでも寄り添うことが出来るかもしれない。





とりあえず最近は本当に小さなことで酷く傷ついたり不安になったり


神経が過敏になっている感じ。


それは痛かったりして気分のいいものではないんだけど


同時にその感情を客観的に見て、なんでそんなに悲しくなるんだろうって


リアルタイムで分析できるチャンスでもある。


私にとって、自分は1番身近な実験台。





一つ書き記しておこうと思ったことをメモっておこう。


日本語の論文作成の授業は日本語教育の先生が担当していて


日本語の使い方にも色々と指摘をする。


私は日本人だけれどやっぱり海外で中高を送っていると


日本の文化とか礼儀とか正しい言葉遣いだとかそういったものが


欠如している点は否めない。


それなりの日本人的な価値観は持っているつもりなのだけど


やっぱりわからないことも多々ある。





クラスで目上の人(この場合は先生)に対しての言葉遣いが


不適切であると指摘された。


そしてきっとそれはその通りなんだと思う。


もちろん私が意図的に無礼な態度をとっている訳ではないことは


先生側も承知しているから


「なんて失礼なの!!今すぐ改めなさい!!!」


という感じで注意されるわけではない。


「先生に向かっては○○っていう言葉遣いは失礼になるからダメ」


と普通に注意されるだけ。


「そっかーここは日本だし、自分の価値観だけじゃ通用しないよな」


「今知ったんだから、くよくよせずにこれから気をつければいい」






こういう反応を私の脳みそは期待しているんだけれど


実際はそうはいかない。


「どうして私は礼儀とかにすごく気をつかっているのに

  失礼なんて言われなきゃいけないの」


という感情の反応が返ってくる。


いまいち感覚レベルでは


自分自身が失礼な人間だと言われている状況と


自分の言った言葉が失礼になってしまう状況との区別がつかなくて


自分の存在・価値観自体を否定された気持ちになってしまうらしい。


そしてそれは私にとってとても悲しいこと。


これ多分小さい頃から全く変わっていない。





でもなんでだろう。


「失礼」といわれると異常に傷つく。


ていうか何でもかんでもすぐに傷つき過ぎる。


それも悪いことばかりじゃないんだろうけど。


きっともう少し若い頃にこういう状況になってたら


「私ってダメで無礼な人間なんだな・・・もう喋るのやめよう。」


「この先生はきっと私のこと嫌いなんだ。じゃあ私も嫌い。」


っていう二極を行ったりきたりするだけだった気がする。






今は「どうしても感情的に傷ついてしまう自分」と


「きっと私の人格自体が否定されたわけではないと思っている自分」の


両方が同時に存在していて


少し落ち着いて自分の傷ついた感情を見ることが可能になってきた。


前者だけだと自己防衛のスイッチが完全にオンになってしまって


怒りとか悲しみとかでその背後に隠れた原因がなかなか見えないのだけど


今は本当に危なくなったら自分を支えられる自分がいることを知っているから


危険地帯に痛いのを承知で踏み込むことが可能になる。






逆にきっと悩んで悩んでどうしようもない人は


ただ単に感情的で傷つき易い弱い人っていうわけじゃなくて


自分を支えられる自分がいないから


踏み込むことが難しくなっているだけで


そういう支えとか安心感があればきっと誰だって頑張れるんだろう。


こんな前提を自分の中にもっていると


くよくよしていたり、一見「弱い」人に


「もっと頑張れ!」とか「早く立ち直れ!」なんて言っちゃうのは


単に自分の中の葛藤やイライラの表れでしかないことに気づく。


それは結局相手のためにかける言葉ではもはやなくなっていたりする。






昼間物凄い考えまくってたときは色々と納得のいく仮説が立てられたんだけど


忘れちゃったなぁ・・・すごく残念。


また思い出すかなぁ。


大分思ったことをそのまま書き出したからまとまりないけど


今日はひとまずここまでにしておこう~。

あまえんぼ

とても辛いこととか


悲しいこととか


苦しいこととかが起きると


無理してでも誰かに相談しなきゃとか


無理してでもゆっくり休まなきゃとか


思うんだけれども


特にこれといってきっかけとか


それ相応の理由がないと


私が怠惰なせいなのか


無理してでもそういうことしようと思えないから


ぐだぐだと日々過ぎていくのだけど


着々と何かが擦れて行っているのはなんとなくわかっていて


でも面倒で行動を起こせないでいる。





あーホルモンがぐらぐらしてるんだな


あと数日したら何事も無かったかのように


もやもやとかが消えていってる気もする


だからまぁいいかー焦ることもないとも思う。





自分がもし甘えん坊キャラだったらどうなんだろう。


ってたまに思う。


別にそっちのほうが良いとか悪いとかじゃないし


私は私でいいんだと思ってはいるんだけど


こういうとき人見知りとか


自己防衛最優先な人って


堂々巡りだなーって。


嫌味無く甘えられる人っているじゃない?


「くそー、でも可愛い。」的な人。


自然に悩みとか自分のこと話せる人。


無い物ねだりなんだけどねー


やっぱり憧れるよねーはは。


最近人とまともに話してないな。

早起きって1番辛いのは起きる時だと思ってた。


なかなか目が覚めなくて、


まだ布団の中でごろごろゆっくりしたい願望との戦い。


でも最近思うのは


1番辛いのは起きる時じゃなくて


夕方の眠気と疲労感と体の重さとの戦いなんじゃないかということ。





年なんだろうか。。。


睡眠時間自体はそんなに短くないんだけど


疲れが睡眠で解消されないまま蓄積されてる感が否めない。


一日中頭がぼーっとしてるし


注意力散漫しまくりだし


何事にもいまいち集中出来なくて


いつも狭くてぼやけてかすれた視界が広がってる。





疲れると精神的にも余裕がなくなるし、イライラしやすくなる。


誰とも話したくなくなるし、いろんなことが面倒になる。


でもどうにかして発散したいと思うんだけど


発散する場所を確保したり


発散することによって人に与えるダメージを考えると


慎重になるし、慎重になってると


結局考える労力が惜しくなってどうでもよくなってくる。





その結果、手っ取り早くて、ダメージが最小限に抑えられる


ブログにお世話になるわけですねー。


本当に都合のいい場所だ・・・。


ブログのあり方って人それぞれだとは思うけど


さすがに申し訳なくなってくるね・・・。


ウェブは比較的自由な空間なのかもしれないけど


だからこそそれに伴う責任は常に自覚していたいなあ。


はふー。


最近同じようなことばかり考えてるなー。


換気せねばー。

すき

今日は7時まで授業から雨の中汗だくになりながらチャリぶっとばして


めっちゃ久しぶりに会う友達のライブを見に行った!


間に合ったーよかったーとか思ってたら


道に迷いまくり、ローソンの人にお世話になりまくって


なんとか演奏中には間に合いました・・・よかった。






あまりバンドとかライブカルチャーに馴染みの無い私にとって


刺激的で想像力を駆り立てるひと時。


皆フリーダムだったし、音楽で存在してた。


歌っていたとか、演奏していたって言うより


その人が存在しているということが、


音楽と自然に融合したという印象を受けた。






私は音楽が好きだ。歌うことも、踊ることも。


でもいつも私は自分の音楽に自信がない。


別に自分の好きにすればいいのに。


好きなものを好きといって、誇ればいいのに。


こんな音楽が好きだと、引かれるかなとか


こういう音楽が好きなのに正反対なジャンルも好きとか


なんとなく筋が通らない気がして統一したくなってしまう。






もちろん人の好きなものって時間の経過で変化したりするけど


いつも私は古いものを排除しながら新しい道を選んでしまう。


広がりを保つことをせずに


統一感と一貫性を求めてしまう。


でもなんか、やっぱり好きなものは好きでいんだなって実感した。


頭ではわかってるつもりでも


こういうことってどうして忘れちゃうんだろう。






きっと自分と全く違った生活をしていたり


趣味も全く違うような空間だったけれど


「好き」の気持ちは共通だなと思った。


もっと色んな文化に触れて


色んな好きに出会いたい。


色んな私を見つけたい。