山盛ご飯デフォの店で、あえてヘルシーを選ぶ…朝めし前に多賀城の喜太郎さまと、2つの国名勝を巡る | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

山盛ご飯デフォの店で、あえてヘルシーを選ぶ…朝めし前に多賀城の喜太郎さまと、2つの国名勝を巡る

 

週末夜のバスタ新宿Aエリアは、仙台行きの高速バスが目立ちます(笑)

 

今回は、仙台周辺にある「国名勝なのに、誰も来ないような観光の穴場」をご紹介しますよ。

 

今回乗車したのは23:30発の宮城交通(京王バスとの共同運行)便ですが、翌朝5:20に着くまで一度も開放休憩が無いのですね・・・

※昼行便は開放休憩があります(共同運行相手の京王も同じ対応)

 

他社便みたいに佐野や那須高原、安達太良あたりの途中のサービスエリアに停まった時に、飲み物とお土産を買おうと思っていた人は要注意!

 

この宮城交通便は、以前に同社が仙台-金沢線の夜行で起こした死傷事故が未だに尾を引いているのか、東京-仙台の距離にしては珍しく運転手2人乗務体制。

※復路の京王便は、競合他社同様に1人乗務でした

 

座席リクライニングレバーのすぐ近くに付いている非常ボタンは、押し間違えが多いので「2度押し以上した場合のみ、本当の異常事態と判断して確認対応します」との事。

 

多賀城駅

仙台駅からJR仙石線に乗って22分、宮城県多賀城市の多賀城駅までやって来ました♪

 

ちょうど、松島海岸まで半分くらいの時間距離の位置。

 

仙台塩釜港にも近く、平日は通勤者で混みあう駅なんだとか・・・

※2022年度(令和4年度)の1日平均乗降人員11,714人(たがじょう駅)

 

JR東日本仙台支社管内で、標準的なバージョンの接近放送が装備されていました。

※通称「めちゃイケチャイム」と呼ばれているモノです

 

多賀城駅南口、駅を背に右手にあったサンバード長崎屋「宮城多賀城店」(Wikipedia)…

 

1987年(昭和62年)6月開店 - 2002年(平成14年)9月30日閉店(店舗面積約8,151㎡)。

 

閉店後に、旧店舗敷地約5,600m2のうち長崎屋本体が所有していた約1,500㎡は、2008年(平成20年)に仙台市の医療法人松田会に売却され、同会が旧店舗建物を解体。 

 

なお、現在「松田会」は多賀城に事業所の存在が確認できません。 

□外部リンク参照

 

鎮守橋(末の松山橋)

駅南口のすぐ前を流れる砂押川に架かるのが、鎮守橋です。

 

昭和17年に海浜部(現在の臨港工業地帯)へ海軍工廠建設に伴い、仙石線を越えて内陸部(現在の東北学院大学工学部キャンパス周辺)に設けられた男子工員宿舎を結ぶ橋として建設。

 

その後、大型トラックなど交通量の増加や、戦後の米軍進駐に伴い数次にわたり拡幅工事が施されました。

 

河口から3.4km地点にある鎮守橋ですが、旧字名「八幡字鎮守」に因んで名づけられたとの事。

 

現在は最近になって再び車道幅9m(歩道幅まで含めて17~30m)まで拡幅され、シンボル的な橋に生まれ変わりました。

 

多賀城駅から鎮守橋を渡り国道45号線へ出るちょうど中間地点・・・

 

住宅街に入る路地入口に、「沖の井」「末の松山」まで300mの案内看板を発見したので、入ってみましょ♪

 

おい、キタロー!

多賀城駅から南西(直線距離)350mの場所にある喜太郎神社は、江戸時代に八幡村の領主であった天童氏の守り神で、別名「天童神社」または「喜太郎稲荷」とも呼ばれています。

※宮城県多賀城市八幡2丁目7(旧「八幡字台」)

 

天童氏は、その名の通り元は出羽国(現在の山形県)の天童城主でしたが・・・

 

天童氏は天正12年(1584)最上氏との戦いに敗れて関山峠を越えて陸奥国に落ち延び、やがて伊達政宗に仕えて「準一家」の家格でここ八幡の地に所領を与えられました。

 

その際に、喜太郎という足軽(忍者?)に窮地を救われ導かれながら当初は、山形-仙台を結ぶ峠道の途中にある仙台市西部の愛子地区へ辿り着いたという伝説が残されています。

 

「恩人」の名に因む

天童氏から見れば、まさに喜太郎という忍者は「命の恩人」。

 

現在、宮城県多賀城市と山形県天童市が友好都市なのは、この縁によるものなのですね。

 

境内は平成29年に再整備され、見通しも良く歩きやすくなっています。

 

社殿は辰巳(たつみ)すなわち東南向きで正面・側面とも一間の造りであると、安永3年(1774)の八幡村風土記御用書出に記されているそうで・・・

 

現在の社殿も、当時の記載と同じ造りとなっているとの事。

 

続いては、100m南にある「国名勝」を巡ってみましょう♪

 

末の松山

ここは、古代から歌枕の地として頻出する場所だったのですね。

※宮城県多賀城市八幡2-8-28

 

松尾芭蕉も訪れた奥の細道に記載されている寺が、こちらの末松山宝国寺です。

    

「きみをおきて あだし心を わが持たば 末の松山 浪もこえなむ」 

古今和歌集 東歌


 「うらなくも 思ひけるかな 契りしを 松より波は こえじ物ぞと」 

源氏物語 

 

上記の他、末の松山を詠んだ歌は数多く残されているそうですよ。

 

この辺りは、登頂部で周囲より5~6mほど高い海抜10mの小高い台地になっています。

 

今では周辺が住宅街化して、とても国名勝に指定された著名観光地には見えませんが・・・

 

在りし日の姿が、現地看板に記されていました。

 

もちろん、この近くに古代の国府が置かれていたことにも、強く関係があるのですがね。

 

当時の中央政府が置かれた京都方面との、特に為政者における人的交流があったことで、この地の名を「国名勝」に認定されるレベルまで引き上げたものと思われます。

 

沖の井(沖の石)

末の松山からさらに60m南には、もう1つ「国名勝」クラスの場所が住宅街の中に存在します。

 

残念ながら、本ブログ管理者は和歌に詳しくないのですが・・・

    

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知ら?

 

ここ「沖の井(沖の石)」も、後に「沖の石の讃岐」と呼ばれる二条院讃岐(源頼政の娘)のこの地を詠った歌が『千載和歌集』に載っているとの事。

※宮城県多賀城市八幡2丁目19

 

「末の松山」「沖の井(沖の石)」ともに、男女間の関係を詠んだ歌が多いようです。

 

仙台藩も4代藩主・伊達綱村の時代に名勝旧跡整備を実施し、地元の有力者に管理をさせる代わりに諸役を免除して手厚く保護したそうですよ。

 

しかしながら、このあたりは海抜3~4mの場所で、仙台塩釜港(海面)から最短地点で約1.4kmしか離れていない場所・・・

 

東日本大震災では、当方の背の高さ(165㎝)に迫るくらいの津波が押し寄せたとの事です。

 

半田屋

東京から夜行高速バスに乗り「飲まず食わず」来たので、ここらへんで「朝ごはん」にしましょ♪

 

今までに何度も入ったことがある、多賀城の国道45号線沿いにある「大衆食堂半田屋」さん。

※宮城県多賀城市町前2-3-9(大衆食堂 半田屋 多賀城店)

 

仙台(宮城県庁前)起点12.3km地点の歩道橋近く、仙台方面へ向かう側に建っています。

 

仙台出身者には「めしの はんだや」という名で超有名な、大盛ご飯デフォのお店ですが・・・

 

今回はご飯の量を「並」に落として、鯖味噌と菜の花のお浸し、味噌汁を付けた「ヘルシー定食」に仕立てみました♪

※「昔ながらの定食屋スタイル」なので、自分でおかずを選んでゴハンの量と汁を注文する際に「先会計」するシステムです

 

まぁ、ごはん「並」といっても、「小」の下に設定されているサイズなので、最も売れる「小」が一般的に言うところの「大盛」という、相変わらず知らない人が聞いたら仰天するボリューム感(笑)

 

それでも、時代環境の変化で「量より質」を問われているため、私が学生だった頃に比べれば御飯の盛り量が減ったし、お値段も高くなってしまいましたが・・・

 

ほぼワンコイン(税込550円以内)で、こんなヘルシー感あるマトモな朝ごはんが食べられるなんて、やっぱり半田屋はコスパ最高の定食屋なんだと、改めて実感ですね。

 

レンジでおかず温めと、給茶・給水、そして食後の下膳は客側の完全セルフでお願いですよ!

 

国道45号線を挟んで約230m先の住宅街に埋もれるような形で、先ほど巡った「末の松山」の頭だけ出ているのが見えました。

 

いかがでしたでしょうか?

今回は、仙台周辺にある「国名勝なのに、誰も来ないような観光の穴場」をご紹介しました。

 

夜行高速バスで早朝に仙台に着いて、松島海岸の観光施設がオープンするまでの間の時間潰しとして、ちょうど中間地点にある多賀城で途中下車して軽くお散歩のご提案ですよ♪

 

この後、松島海岸を散策して再び京王が運行主体の夜行高速バスで東京に戻るのですが・・・

■本ブログ内関連記事(観瀾亭編)参照

■本ブログ内関連記事(福浦島・絶景の宿編)参照

 

途中の開放休憩無しは、往路の宮城交通便と同じ。

 

しかしながら、座席配置が京王車のエアロエースは「1+2」なのですね。

※対する宮交のセレガは完全な3列独立シートでした

 

「おひとり様」で旅行する際には、京王便でも独立席に当たる「C列」を選択してくださいね♪