「ビル5階の高さ」から何を学ぶか?、、、笹目橋~旧岩淵水門を散歩する♪(*過去記事更新)
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早瀬渡船場跡
早瀬の渡しは戸田の渡しよりも古くからあったといわれている。
この渡しから北の延びる道筋は、旧鎌倉街道「中道の脇街道」か「枝道」の役割を果たしていたといわれていたが、昭和5年ごろ(1930)にはその役割を終えたそうだ。
昭和17年(1942)に木製の笹目橋が架けられ、
現在の笹目橋は昭和39年(1964)に完成したもの。
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笹目橋付近の荒川左岸にて本ブログ管理者2016.3.20撮影
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笹目橋(ささめばし/本ブログ管理者2016.3.20撮影)
荒川と新河岸川を渡る、
国道17号新大宮バイパスと首都高速5号池袋線の橋。
左岸の埼玉県戸田市と右岸の東京都板橋区を結んでいるが、
橋の途中わずかに和光市域に掛かる。
(全長641m、荒川河口から28.6km地点)
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1942(昭和17)年 - (旧)笹目橋開通。
当時は欄干のない木造橋で、河川増水時は水面下に沈む沈下橋。
現在よりも数百m上流にあり、荒川にのみ架かっていた。
新河岸川を渡るには下流の早瀬橋を渡る必要があったそうだ。
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1963(昭和38)年 - 新大宮バイパス部分着工
1964(昭和39)年 - 新大宮バイパス部分開通
1990(平成2)年 - 首都高速5号池袋線(高島平 - 戸田南間)供用開始
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未だ計画段階の笹目橋
県道69号川口・白子・浦和・田無道路台帳平面図(昭和4年度)
新河岸川は「芝宮橋」で越えた、、、
昭和初期には、既に新河岸川と荒川は分離され、
大正年間でかつて朝霞で合流していた川筋は、現在のように赤羽岩淵方面での合流を目指しているようにこの図面では描かれている。
俗に言う「荒川直線化工事」というものだ。
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県道69号川口・白子・浦和・田無道路台帳平面図(昭和4年度)
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新河岸川に架かる「柴宮橋」現況
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柴宮橋&(旧)笹目橋の道筋が分かる時代の道路地図
「最新埼玉県大地図1/100,000」昭文社(1972年)
右岸に渡ってみた。。。
笹目橋の下にある河川管理境界標と、上にある県境標識
(地図中①の位置にて本ブログ管理者2012.11.18撮影)
(東京都第4建設事務所の図面に本ブログ管理者加筆)
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新河岸川(しんがしがわ、しんかしがわ、しんがしかわ)
埼玉県及び東京都を流れる一級河川(荒川水系隅田川の支流)。
上流起点(河川管理上の終点)=埼玉県川越市上野田町12
延長25Km、流域面積345Km2の荒川水系の一級河川
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江戸時代、川越藩主松平信綱が、当時「外川」と呼ばれていた荒川に対し、
「内川」と呼ばれた「本川」に、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせることによって流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとした。
これ以降、本川沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。
舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。
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客を乗せる早舟は、
川越夜船とも呼ばれ、川越と江戸を4日から5日で往復した。
貨物輸送にはこれより遅い船と速い船があり、速い船は2日で往復した。
船は喫水が浅い高瀬舟で、明治・大正期にはニブネと呼ばれていた。
積載量は70石から80石、長さ15メートルくらいのものが多かった。
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明治時代に川越鉄道(現在の西武新宿線)や
川越馬車鉄道(のちの西武大宮線、廃止)、
大正時代には新河岸川とほぼルートを同じくする東上鉄道(現在の東武東上線)が開業した結果、舟運は衰退していった。
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改修されるまでは川越市の伊佐沼が源流であったが、1910年(明治43年)以降の荒川の直線化工事に合わせて、1920年(大正9年)~1931年(昭和6年)に川越市街地の北側を流れる赤間川に新河岸川は繋げられた(伊佐沼から流れ出る旧新河岸川部分は現在は九十川という)。
また、志木より下流も掘り進められ、
当時大和町(現在の和光市)新倉で荒川に合流していたのを、現在の岩淵水門で隅田川に合流する形となった。
さらに昭和に入ると
志木より上流の旧河川も洪水防止のため河川改修工事が行われた。
その結果、河道が直線化されて
流量が保てなくなり船の運航を取り止め舟運の時代は終わりを告げた。
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実際の県境線は笹目橋よりも西側
(右岸は豊島区の野球場として河川敷占有許可が出ている)
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再び笹目橋を渡って左岸に戻る、、、
この堤防が
15m超の高さで造られていることを示す標識がありました。
(地図中⑥の位置/本ブログ管理者2011.4.28撮影)
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堤防の構造を示す国土交通省設置の看板・・・
河川側=縦1:横4
内陸側=縦1:横3
の高さ:長さの比率で堤防が嵩上げされていることがわかります。
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こうして、堤防自体の強度を上げると共に、
吸水シートなどを土(芝)の下に隠し覆いして、
浸水によって脆くなり決壊してしまう危険性を
少しでも軽減しようとする設計であることがわかります。
(埼玉県戸田市堤外にて本ブログ管理者2011.4.28撮影)
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埼玉県戸田市川岸1丁目の街並みと左岸堤防
(地図中⑦の位置)
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この位置関係で撮ると、
「一般建築の4階~5階に匹敵する高さ」
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「天端幅4~5mのアスファルト舗装」
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「表水部に緩く、内陸部に若干急な傾斜」
という構造で設計されていることがよくわかります。
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この写真を撮ったのが東日本大震災直後(2011.4.28)だったので、
これは津波被災地の復興事業に参考になるかな?・・・
って思ったので、本ブログでも取り上げてみました、、、
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内陸側の様子。。。
(埼玉県戸田市川岸2丁目・下前2丁目地区の街並み)
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こういう堅固な堤防によって、川沿いの住宅街に洪水被害が発生するリスクを少しでも軽減する努力がなされていたのですね。。。
(本ブログ管理者2010.10.8撮影)
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■本ブログ関連記事「戸田橋」編もご参照いただけたら嬉しいな♪
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岩淵渡船場跡
東京都北区岩淵町41番先付近に、
岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場があり、江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていた。
渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれている。
また、室町時代には、関所が設けられ、
通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進された。
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江戸時代になると
「日光御成道」と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備された。
渡船場も将軍用と一般用に別れており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として長さ六五間(約117m)、幅三間(約5.4m)の船橋が架けられた。
一般の渡船場は、人用の船と馬用の船一艘ずつ用意されていたが、
対岸の河原にある善光寺(現在の埼玉県川口市船戸町の船戸小学校西隣にある寺)が、名所として参詣者で賑わう開帳中には船橋が架けられた。
渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋が架けられたが、交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割をおえ、船橋は撤去された。
(平成7年3月 東京都北区教育委員会/現地看板より抜粋)
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ちなみに、旧「岩淵渡船場」の位置は、現在の新河岸川の橋(東京都側)の位置(現在の荒川下流部は近代になって新たに左岸側に掘削された放水路で、旧荒川は、赤羽岩淵・川口付近では現在の新河岸川―隅田川の位置を流れていた)らしい。
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現在の国道122号「新荒川大橋」
■本ブログ内関連記事参照
(埼玉県川口市船戸町にて本ブログ管理者09.12.4撮影)
(地図中⑧の位置)
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内陸部に関東大震災級の家屋火災被害が発生した際に、避難場所および救援物資を積んだ船の接岸場所として想定されている。
(但し、東日本大震災みたいな大津波の発生は想定されていない)
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平成15年まで運行されていた荒川水上バスの発着所でもあった。
(岩淵リバーステーション隣接地)
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荒川と隅田川が分かれる場所に大正時代に造られた水門で、昭和57年まで使われていたが、老朽化に伴い新水門(青水門)にその役割を移したものである。
旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」、「東京都選定歴史的建造物」、「北区景観百選」にも認定されている。
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赤水門を渡った先は 「荒川赤水門緑地」 となっており、荒川リバーアートコンテスト特賞を受賞した青野正さん作の 『月を射る』 という、やや奇怪なオブジェが建っている。
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また、この広場の木立の右端には、昭和13年から昭和19年にかけて荒川の土手で行われていた 「全日本草刈選手権」 の記念碑である 「草刈の碑」 もあり、碑文には「農民魂は 先ず草刈から」と記されている。
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岩淵水門(いわぶちすいもん)
東京都北区志茂において現在の荒川と隅田川とを仕切る水門。
かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、
かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。
(本ブログ管理者2012.11.18撮影)
すなわち、
この水門は「(現)荒川」と「(旧)荒川=隅田川」との分岐点にある。
1924年(大正13年)竣工の旧水門(運用終了=旧・岩淵水門)と1982年(昭和57年)竣工の新水門(運用中=現・岩淵水門)の2つが存在する。