五十路は人生半ばなり -24ページ目

五十路は人生半ばなり

2014年7月に好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(アレルギー性肉芽腫性血管炎、チャーグ・ストラウス症候群)という難病を発症。
退院後4カ月でプレドニンの処方も0mgになり、現在はほぼ健康人と同じ生活。あたふたと再起のための仕事の準備を進めている。

私が好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(チャーグ・ストラウス症候群、アレルギー性肉芽腫性血管炎)で入院したのは(入院した時点では病名は解らなかったのだが)住居地の隣町にある国立病院だった。近場の総合病院に1週間ばかり入院していたのだが見当違いの検査ばかりで一向に治療を始めてくれないために、転院を申し出てのことだ。この国立病院は父が最も気に入っていた病院であり、父が亡くなった病院でもあった。前立腺癌だった。医師から病気のことと余命を知らされる時は私も同席したが、その後は父が亡くなるまで一度も病院を訪れなかった。嫌いな父であったし、上手く説明できないが死ぬということが許せない気持ちだった。最後に変なことを言われちゃ困るという気持ちも有っただろう。そういう父だったのだ。

だからその病院に自分も入院してベッドに横になっていると、ついつい父のことが思い出される。私が病院を訪れた時に「ありがとう、ありがとう」と何度も言ったのは、私に対する何かしらの気持ちが有ったからだろうか。死ぬまで一度も訪れなかった私を待っただろうか、恨んだだろうか、等々。電気が消えた病室でそんなことを考えながら、眠りに付くことも多かった。そんなある夜のこと・・入院して1週間が過ぎた頃だっただろうか・・寝られもせず暗闇の中でベッドに横たわってぼんやり物思いにふけっていた私は、ふと視界の片隅に何かが見えていることに気が付いた。何も動きがない病室の中で、それだけがわずかに動いたから目に留まったものだと思う。空間のゆがみのようなもの、色があるわけでもなくハッキリした形があるのでもないが大きさと存在感は感じられるもの。ちょうど人の背丈くらいのそれはベッドの床面と同じくらいの高さに浮かんで、スムーズに床面と平行に移動していた。死神かな・・と考えた私の幼稚さを笑っていただくのは構わないが、その時はまだ正体が判らない病気に対する恐怖もあったし、不可思議なものや現象を頭ごなしに「有り得ない」と決めつける性格でもないのだ。

それを死神かと考えたのは、それが少しずつ私のベッドの方に近付いてきていたからだと思う。私は何とはなくそれの動きを目で追いながらも、不思議に恐怖は湧いてこなかった。今考えると恐怖心が起らなかった理由として、それが私に関心を示しているような感じがしなかったことが上げられるように思う。私が見ている内にそれはスーッと私のベッドを素通りして廊下の方へ移動し、そのまま見えなくなった。あっちは女性患者が入ってる病室だったなと・・そのときまで私はそれを死神ではないかと考えていたのだ。

それが消えてしばらくして、私はそれがいわゆる霊なのではないかということに思い当たった。そうか、病院だもの。あるだろうなと妙に腑に落ちたのを覚えている。怖いとかそういう気持ちは全くなくて、むしろ共感のような気持ちがあった。私の病気自体、得体が知れなかったから「死ぬこともあるんだろうな」くらいに考えていたので、精神的に割と霊と近しい場所にいたのかも知れない。死ねば私もお仲間だというくらいの感じだろうか。

その時のことはノートに書いたと記憶していたのだが、後でいくら探してもその記述が見付からない。さてそうなるともう一つの可能性として、目の端に霊のようなものが見えたところからノートに書いたところまでの一連が、全て夢だったという説が浮上してくる。夢から目覚めた時に継続して夢の中で考えていたことを考え続けたとしたら、夢と現実の境は明確に解らなくなる。そして本来は目覚めとともに急速に失われるはずの夢の中の記憶は、目覚めた後も考え続けられたことによって現実の記憶として定着しまう・・・ということも有るかも知れない。

このことに関しては今となっては本当に起ったことか夢だったのか解らない。ただ、怖くなかったのは夢だったからと説明されれば、そんなような気もする。
夕食の準備に台所に立っている時に限って、急に動悸が激しくなることがある。最初の頃は不安になって料理を中断して体を休めたりしていたが、息子と一緒にゲームなどしているとエキサイトしても全く症状は起らないので「都合が良過ぎるんじゃないか」と疑問に思うようになった。一応、突然危険な状態になったり死んだりしたら家族が慌ててしまうから「気のせいかも知れないけど」と前置きをして、このような症状があるということを伝えておいた。私が患っている病気では心臓に障害が出ることもあるから、全くの杞憂というわけでもないからだ。

でも「都合が良過ぎると思うんだよ」と話すと、息子が「食事の支度するのが嫌だっていう気持ちがあるのかな」などと言う。いや、食事の支度を嫌だとは思ってないんだけどね・・等、私が話すと「頭ではそう思ってても体は嫌がってるのかも」と・・・中学一年とは思えないお言葉。ちょっと待てよ、私が教えたんだっけ・・それとも自分で考えたのか?などと私の思考は別の方向に流れていってしまった。さらりと出てくるセリフとしては、中々のものだと。親馬鹿かな。

不整脈は有るのだろうけれど病院の検査では心電図まで全て調べたのに何も言われていないし、年齢的には別に不思議なことでもない。問題はそれをどう感じるかということで、わずかな心拍の乱れが死にそうな異変に感じることもあれば、ちょっと走って心臓がドキドキしているくらいにしか感じないこと、全く気が付かないことだってあるかも知れない。同じ症状に対しても、受け止め方で大きな違いが出てしまうのだ。だから取り敢えずは私自身が心理的に症状を悪化させてしまわないように、動悸に関しては気にしないことに決めた。今まで何十回も同じような動悸、心拍の乱れはあったが、まだ一度も死んだことはないのだから。それでも症状がエスカレートしていくようなら、来月の検診日に医師に相談すれば良いことだ。

息子は今日からスキー教室で、妻は朝早くからお弁当作りだ。普段は余り料理をしない妻だが、息子のお弁当だけは自分で作りたがる。妻なりの何かそういう気持ちがあるのだろう。一昨日だったか夕食の時に「○○(息子の名前)がいないと詰まらないな」と私が言うと、息子が「3日だけだから」と私を慰めるような言い方をした。良いことだなと思う。少なくとも息子は自分が必要とされていることを理解している。

子供にとって何が大切かと聞かれたら、私は躊躇なく「親から愛されている自信」だと答える。私自身が実感として、それを知っているからだ。私には私以外の子供たちがなぜこんなに堂々と、生き生きとしているのかが解らなかった。自分が大人になり、子供を持ってようやく自分と他の子供たちの違いに気付いた。子供は親から愛されていることを実感しているから、安心して伸び伸びと生きられるのだ。親からの愛を実感できない子供は、いつもびくびくと脅えたような態度を取るようになってしまう。自分の身の置き所が見付からないから。安心できる場所は、自分以外の人がいない場所だけだからだ。

私は子育てについて聞かれると、ただ子供を愛してあげれば良いと答える。子供は愛されれば真っすぐに伸びるから。親が伸ばすんじゃない。子供は勝手に真っすぐ伸びようとするものだ。それを歪めてしまう力が有るとすれば、それは親に責任があるのではないだろうか。
思えば保育園に入ったばかりの頃のこと。初めて昼休みに園庭に出たときに、園庭の門に指を挟まれて大出血したのが波乱の人生の始まり・・・いや、その前にも走行中のタクシーに一抱えもある石をぶつけて、近隣一帯が犯人探しに大騒ぎになったというのもあったが(バカな3歳でした、ごめんなさい)。保育園での事故は通い始めて数日目のことで、園のスモックだかなんだかお仕着せの服の前を真っ赤に血で染めた私を、保母さんの一人がおんぶして近くの病院まで走ってくれた。怪我がひど過ぎて意外に痛くない・・・ただ熱いと感じていたことと、血にびっくりして泣いたこと、病院を入るなり保母さんが「急患です!急患です」と何度も叫んでいたことを覚えている。当時はもちろん「きゅーかん」としか聞いていなかったわけだが、治療室に入った時には泣きやんでいて「縫う時だけ泣いていました」と保母さんが言っていたというのは、母から聞かされた。怪我は左手の小指と薬指で、第一関節から先が潰されて骨から剥がれてしまったような状態(考えると気持ち悪いが)だったらしい。骨が無事だったのが幸いして治ったが、今でも2本の指先は曲がったままだし傷痕も残っている。くっついたからいいや・・という感じだ。この2本の指は私の不幸を一身に受け止めてくれるのか、その後も火傷やら麻痺やら災難続きだ。

保育園はその怪我を切っ掛けにやめてしまった。家まで保母さんが来て、母に管理不行き届きだかを詫びて(私がぼけーっと門柱につかまっていたのが悪いのだが)、「また園に来てくれる?」と聞いてくれた・・らしい。私には良く意味が解らなかった。だからじっと先生の顔を見ていたら、母が「自分で決めなさい」と言った。何を決めるのか解らずに黙っていたら、母が保母さんに保育園をやめることを告げたらしい。責任を感じていたと思われる保母さんに・・必死に病院まで走ってくれた保母さんに、何とひどいことをしてしまったのだろうと後で非常に悔いた。母に言わせるとその時の私は「じっと先生を睨みつけていた」らしい。ごめんなさい。そんな気はなかったんです。その先生はきっと一生その時のことが心に残ってしまっただろうなあと思う。

小学校3年生までは比較的順調だった。馬鹿みたいに優秀で校内でも有名だった姉の影響で、そこそこ勉強はできたし先生に可愛がられた。スポーツ得意みたいな格好いい友人が多かったから(私はスポーツが駄目だったのだが)苛められることもなかった。小学校4年生になって新しく赴任してきた(今でもその教師は変態だったと思っているが)教師が担任になってから、徹底的に目を付けられることになった。目を付けられるようになったのは、私にも責任がある。私はその教師の言葉遣いや立ち居振る舞い、物事に対する処理の仕方、生徒に対する態度全てが嫌いだったのだ。だから恐らくことごとくに反抗的だったのだと思う。その教師も当然のように私を目の敵のように扱ったと思っているが、実際にはどうだったのだろう。たかが小学生のガキ相手で、しかも曲がりなりにも教師だ。彼には彼なりの考えがあったのかも知れない。しかしその教師が担任になってから、私の成績・・・特に図工や音楽、体育などは極端に下がり、通知表を見て首をかしげる母を見るのが辛かった。

中学校は東京都の中学校の中でも1、2を競うワルの溜まり場のような学校で、新聞沙汰になる乱闘騒ぎなどを起こすことも多かった。しかし中に入っているとそれほどのことでもなく一部に不良グループのようなのはあったが、相互不可侵というかそれなりに共存していた。その頃の担任教師が英語の先生で、不良グループの頭的存在の1人に「表に出ろ!」と上着を脱ぎながら喧嘩を吹っかけたことは強く記憶に残っている。学活を執拗に妨害されたことに腹を立てたものだが、格好いい先生だった。高校に入学してから出身中学の名前を言うと、皆に怖がられた。それほど知られた学校だったのだ。

高校ではまた嫌な教師が担任になったが、思うに教師ではなく私の方に問題があったのだろう。宿題はやっても提出しない。授業中は徹底的に質問する。説諭には無言を押し通す。しかし自分なりの信念のようなものはあって、テストでは必ず上位の成績を取るように頑張っていた。できもしない奴が偉そうに・・と思われるのが嫌だったからだ。見栄っ張りだったのだ。教師に嫌われるのは当然だっただろう。学校生活の最後の方ではほとんど授業を受けられないことになってしまった。朝の時間が始まるや「職員室に来い」とお呼びがかかり、そのまま帰してもらえない。かといって説教をするかといえばそうでもなく、私を立たせたままその教師は授業のために職員室を出て行ってしまう。他の教師が見かねて「教室に帰っていいよ」と言ってくれることもあったが、そうすると後で余計にねちねちと文句を言われた。私も相手も、ともに嫌な奴だったのだろう。

だから高校2年を境に学校にほとんど行かなくなり、父との喧嘩を切っ掛けに家を出て住み込みでミシンのセールスマンの仕事を始めたりした時も、学校には何も未練がなかった。ついでに言えば家庭にも未練がなかった。自分で働いて大学に行ってやると考えていたのだが、社会はそんなに甘くなかった。いや、私はそんなにも甘かったというべきか。毎日仕事でクタクタになって、帰ってから勉強なんかできるもんじゃない。できる人もいるだろうが、私にはできなかった。当時17歳だったが、酒を飲むことを覚えたことも影響していただろう。自分で金を稼いで酒を飲む。当時の私には、それだけで充分だったのだ。

その辺りから完全に脱線した人生が始まっていたのだろうと思う。泊る場所がなくお金もなく、終業した駅のベンチで寝たこともある。唯一の強みと言えば中学のころから新聞配達をしていたことで、経験者だから新聞販売店に住み込みで雇ってもらいやすかったことだ。今では余り考えられないが、当時は17歳でも親元に問い合わせたりしないで気軽に雇ってくれた。セールスをやっていたから新聞購読の勧誘でも良い成績が上げられて、販売店でも大事にしてくれたのが嬉しかった。この辺りが私の人生では、どん底から1歩だけ這い上がったところと言えるだろう。それから急上昇してまた転落することになるのだが、それはまた気が向いたら書くことにしようと思う。