「葬」が繋がる、繋ぐ。(Sep. 26, 2022) | 微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

 8時の気温20度。いい日和だ。こんな日には日和下駄で歩いたらさぞ気持ちがよいだろう。

 10時半K子は公文へ採点のアルバイトへ。早く辞めたいなどといっていたが、最近口にしなくなったのは慣れたこともあるのだろうけれども、頭の体操になっているようだ。

 ぼくは井伏鱒二を読む。自選全集第九巻を今月中に読み切る予定だったが(今年1月から月一巻のペースで読んできた)、どうやらむずかしくなった。もちろん、他の読書を中断して井伏鱒二に集中すれば可能だが、他にも読みたいものがあるのでしかたない。

 午後ズームミーティングがあるのですでに作ってあった資料をチェック、注をいくつかつけ加える。

 正午、Macに向かって仕事をしているとK子が帰宅。昼は温かいうどんを食べた。

 ミーティングは2時40分からなので散歩する時間は充分あったが、最近頻繁に出会う「葬」という字を青空文庫で検索して、芥川龍之介「葬儀記」、田中貢太郎「葬式の行列」、野村胡堂「葬送行進曲」を読む。10日ほど前に夏目漱石の「初秋の一日」を読み、それにはエリザベス2世の曽祖父にあたるエドワード7世や明治天皇の御大葬、乃木大将の自刃が言及されていたが、芥川の「葬儀記」は夏目漱石の葬儀の記録である。冷静な芥川がめずらしく冷静さを失っている。師を喪った衝撃のほどがうかがわれる。

 午前中に読んだ井伏鱒二「泊鴎会」には田中貢太郎との交流なども語られているが(他でも田中貢太郎の話が出てくるし井伏は田中を師と仰いでいたか)、田中が井伏に一軒の二階屋を指差して、あれが幸徳秋水に家じゃと教えるくだりがある。田中は(出身は確か高知じゃなかったか)東京に出てきて幸徳秋水の世話になろうと訪ねたものの断られて大町桂月への紹介状を書いてもらって玄関番になったのだそうだが、幸徳秋水を訪ねた3日後に秋水は不敬罪で勾引されたという。もしもそのまま幸徳秋水の世話になっていたら自分もいま生きていなかったかも知れぬという。秋水が処刑されたのは1911年、エドワード7世が崩御した年であり、明治天皇崩御の1年前である。いつかも書いたが濫読しているだけなのだが、いつの間にかさまざまなレヴェルで関連性が生ずるのは面白い。ところで田中貢太郎の「葬式の行列」は2ページほどの掌編怪談噺である。

 野村胡堂は、ショパンの「葬送行進曲」をモチーフにしたミステリーである。

 2時40分、久しぶりの、ズームミーティング。明日も同じ時間にミーティングがあるが、今回はこの2回だけである。準備怠りなかったのでスムーズに終わった。K子は4回目のワクチン接種に行く。

 

 

 4時半、小淵沢のセルクルに注文していた全粒粉入りイギリスパンを受け取りに行くことにした。庭に出ると、紅葉しはじめたマルバに西日があたり、惚れ惚れするほどきれいだった。秋明菊はわれわれよりもたけがたかくなり、今を盛りとピンクや白の花を咲かせている。

 

 

 夕食後テレビを点けるとゴダールの『勝手にしやがれ』をやっていた。最初から観たかったが残念。ベルモンドもジーン・セバーグも何て魅力的なのだろう。会話の中にフォークナーの『野生の棕櫚』とか、ディラン・トマスの『仔犬としての芸術家の肖像』とかが出てくる。本はどこにあるのだろう。書庫のどこかにあるはずだ。探さなくては。